リーダーの研究
1995年3月期、再建途上のいすゞ自動車が事実上、最高益を更新した。関和平社長自らGMと渡り合い、赤字の乗用車生産から撤退。トラック柱の得意分野への集中で,高コスト体質の治療は進む。現場では,対話を重ねて組織の壁を崩し,・同時に危機感も共有。超円高下、96年度の復配を目指し、改革に拍車をかける。
5月26日,いすゞ自動車が発表した95年3月期決算は,再建が予想を上回るスピードで進んでいることを,改めて印象付ける結果となった。
16期ぶりに最高益を更新
決算期の変更で5カ月間の変則決算となったこの95年3月期,大型トラックの好調で50億円を見込んでいた経常利益は131億円,60億円とみていた営業利益は138億円に拡大し,ともに12カ月に換算すると16期ぶりに過去最高を記録。
乗用車生産からの撤退に伴い,94年10月期までに総額186億6800万円を計上した構造改善損失も,ようやくゼロに転じた。それは,70年以上の歴史を誇ってきたいすゞの乗用車生産が,名実ともに幕を閉じたことの証でもあった。
「まだ復配もできていないのに,一人前のことは言えない。やっと利益を出す形が整った,というだけだ」。関和平社長は気を引き締める。
93年7月から94年11月にかけて,相次いでフルモデルチェンジした小型トラック「エルフ」,中型トラック「フォワード」,大型トラック「ギガ」。その商品力には手ごたえを感じているものの,現段階で306億円の未処理損失を残しているだけに,慎重な見方を崩していない。
それでも,乗用車の生産を断念したことが業績の急回復をもたらしたのは,当初の狙い通りだったと認める。
「乗用車の生産を打ち切ることは,92年1月に社長に就任して,すぐに決断した。既に新型ジェミニのモデルチェンジが8割方,終わっており,生産設備などを含めると400億から500億円をドブに捨てる可能性もあったが,迷いはなかった」
「ジェミニ」をはじめ,単発ではヒット車種を生み出したいすゞの乗用車事業だが,黒字に転じたことは過去に1度もなく,毎年,300億円を上回る赤字を垂れ流していたのが実情である。
そこにいすゞが構造的に抱えていた作っても作っても黒字にならない高コスト体質、米国工場への過剰投資などが重なって,91年10月期には483億8300万円の経常赤字,という事態を招いたわけだ。
経営に「もし」という言葉は禁句だが,もし仮に92年12月の乗用車生産の中止,という決断がなかったら,再建のスケジュールは大幅にずれこんだどころか、企業としての存亡の危機にもつながりかねなかったのは、改めて指摘するまでもない。
切るべきものは切り,限られた資源をトラック中心の得意分野に集中する。乗用車に伴う赤字の垂れ流しを止めた後で,高コスト体質という構造問題を解消する。92年1月の就任以来,関社長が先頭に立って進めてきたいすゞの再建を一言でまとめると,極めて当たり前の結論に落ち着く。
しかし,この当たり前のことがいかに難しいかを,歴史は証明してきた。30歳代前半のころから関社長を知り,現在はいすゞの非常勤取締役でもある伊藤忠商事のJ・W・チャイ副社長は,次のように語る。「財務,企画畑を歩んできた関は,外からは見えにくいいすゞの惨状を知るにつけ,頭を悩ませてきた。歴代社長の意向に沿って計画を作らざるを得ない立場にありながら,何とか問題の先送りをやめさせるため自分の考えをこっそり盛り込もうと苦慮していた」。
関社長が就任したのは,いすゞが瀬戸際にあった最悪の時期である。立て直しのために大ナタを振るう必要があることは,誰の目からも明らかだった。前社長,前々社長の参謀時代から長年,ひそかに温めてきた出血を伴う改革に着手するには,今回の経営悪化がまたとない機会だった,と言っていい。
関社長にバトンを譲った前社長の飛山一男相談役は,当時の状況をこう振り返る。「私の社長時代,それまで3車種あった乗用車を1つに統合した。私の下で企画を担当していた関君には,それが何を意味するか,阿吽の呼吸で分かっていたと思う。それでも,歴代の社長同様、自分の時には撤退したくない,との思いから,つらい決断は関君に回してしまった」。
GMを納得させた関の一言
乗用車を作り続けていては高コスト体質から脱却できない,との決意を固めた関社長は,まず37.5%の株式を保有する筆頭株主,米ゼネラル・モーターズ(GM)の説得に動く。いすゞは当時、年間6万5000台の乗用車をGMに供給しており、そのことが赤字の乗用車生産から撤退できない原因の一つでもあったからだ。
GMのある中堅幹部は、次のように語る。「GMがジオ・チャネルで販売していたいすゞの小型車は評判もよかった。いすゞを下請け的に使いたい、という勢力が、社内になかったというとウソになる」。
その難局を乗り切るきっかけとなったのは、関社長20年来の旧知の間柄で、やはり同じ時期に巨大組織の再生という難題に取り組んでいたGMのジョン・スミス社長兼最高経営責任者(CEO)に、正面からぶつけた次の殺し文句だった。
「いすゞを小型車の下請けとして使うのは、GMのためにもならない。むしろいすゞは、GMが持っていないトラック、ディーゼルエンジンに特化することがお互いの利益になる」
この考えに賛同したスミス社長はその後、「いすゞはGMグループのアジア、トラック、ディーゼルエンジンの核」との発言を繰り返し、いすゞの再建を全面的に支援。いすゞが北米の生産拠点、スバル−いすゞオートモーティブ(SIA,インディアナ州)で生産していたピックアップトラックをGMの工場に移管し、SIAは利益率の高いRV(レクリエーショナル・ビークル)「ロデオ」の生産に専念するなど、二人三脚で難局を乗り切る姿勢を鮮明に表わしていく。
GMさえ説得できれば、銀行筋は「もともと、乗用車は採算に乗らない、と問題視していたので、渡りに船」(いすゞと取り引きのある都市銀行首脳)だった。海の向こうでは旧友、ジョン・スミスが批判を一身に集めながら人員削減を断行し、GM立て直しの成果を着々と上げている。それを横目に見ながら、関流の「切るべきは切り、得意分野に集中する」経営には、拍車がかかっていた。
例えば乗用車の国内販売をテコ入れするために、拡張を続けてきた販売店。営業担当の椿吉郎常務は、ディーラー戦略の基本を「市場のボリューム、実情に応じ、大型トラックから小型、RVまですべてを1チャネルで扱う地域と、2チャネルに分ける地域とに分類するのが最終的な狙い」と説明する。その言葉通り、東京、大阪などの10地域で、相次いで販社の合併を実現した。
コスト高の原因ともなっていた部品メーカーには、さらに厳しいメスが入った。ある系列部品メーカーの首脳は、「いすゞが発表している系列にこだわらない部品調達、海外からの購買拡大は、半端なものではない」と説明する。
資金面でも部品メーカーを再編
「海外から買ってくれば3割から4割は安くなる,と見積もりを鼻先に突き付けられれば,いやでも原価低減に応じるほかない。いすゞだって系列外から買っているのだから,うちだって傘下の企業を切ってでも部品の原価を下げていく」
94年5月には系列の車体メーカー,車体工業を吸収。II月末には自動車用シートの生産子会社,アイテスの全持ち株を独立系部品大手のニッパツに譲渡して,60近くある系列部品メーカーの再編を資本面からも推し進めた。
提携先とて例外ではない。国内販売に関してヤナセ,富士重工業と結んでいた提携関係を事実上,解消し、同じGMグループとしての資本関係があったスズキ株も売却。
代わりに92年12月,本田技研工業の乗用車,いすゞのRVを日米の市場で相互供給することで合意したのを皮切りに,日産自動車,日産ディーゼル工業,日産車体との小型トラック,マイクロバスなどの相互供給,マツダへのディーゼルエンジンの供給などを矢継ぎ早に決定している。
乗用車の生産,いすゞOBが数多く在籍する系列部品メーカーや販社,歴代の社長が関係を結んできた提携先。これだけ徹底して「切った」のだから,関社長が反感を買うのは,どうしても避けられない。
いすゞから関連企業に片道出向となり,再建のしわ寄せをもろに被ったある年長のOBは,率直に語る。「関は昔から好きではない。周囲でも、冷たすぎるという声は耳にする。構造改革が必要なのは分かるが,彼だって意思決定の中枢にいたのだから,赤字転落の責任なしとは言えないはずだ」。
もちろん批判の声は直接,間接に本人の耳にも届く。多くを語らないが,脅迫状まがいのものを受け取ったことも、1度や2度ではないようだ。それでも,最後の決断を他人に任せるわけにはいかない。いい例が,部品を海外調達に切り替えるときの調達リストである。関社長は珍しく本音を漏らす。「この部品を海外に出せばどの部品メーカーのどのおやじが痛むか.長い間,いすゞにいるんだから,すぐに顔が思い浮かぶ。だからこそ,どんな小さな部品でも自分でハンコを押して、最終的な責任を取らなければならない」。
情に流されない冷静な合理主義者。少なくとも,本社での意思決定に関する限り,先のOBの率直な感想は,関社長の特質を的確にとらえていると言っていい。しかし,生産や販売,開発の現場では,ウエットな側面を見せるもう1つの顔を持っていることは,あまり知られていない。
現場との対話重視で組織の壁崩れる
藤沢工場で現場からたたき上げた小型車製造部の青木達己次長は,関体制になって初めて、社長と酒を飲みに行く,という経験をした。10人ほど固まっての飲み会だったが,工場側の予定に合わせて,社長室の方が予定を変更したことが強く印象に残っている。
「1回目の時は人事の話など,気負ってあれこれ言った記憶がある。でも,後で思い返すと,『あれだけ忙しい社長にわざわざ言うほどの話でもなかったな』と少し反省した。だから,2回目の時には,飲みすぎちゃいかんですよとか,体に注意しないとだめですよ,というような雑談を中心に話した」
関社長と現場との対話は,1000人以上を対象に,数え切れない回数に上がる。中でも乗用車の開発中止で直接の影響を受けた300人の技術陣とは、4、5人ずつ丹念に説得を繰り返し,キーマンとは1人ずつ対話を重ねた。その結果,最も懸念していた他の乗用車メーカーへの技術者の流出は,1人も出さずに済んでいる。
販売会社,東京いすゞ自動車(東京・千代田区)には,今年だけでも3,4回関社長がふらっとやってきた。「外で飲み食いしながら会う時もあるけど,結構突っ込んだ話もするよ」と東京いすゞの久保田靖男専務。
対話自体に重要な意味があるわけではない。むしろ,いすゞグループ全体が置かれている立場を現場がいかに認識し,実際の行動に移すかが,改革のスピードを左右する最大のカギとなる。
その意味で94年2月,9年ぶりにフルモデルチェンジした中型トラック「フォワード」は,生産,開発、販売がお互いの壁を取り崩し,開発を効率的に行った象徴的な事例と言える。
92年7月,まだ研究試作車ができるかできないかの段階のことだった。開発の指揮を執っていた稲生武常務のもとに商品企画室の小嶋聡主任部員が意を決したような表情でやってきて、こう切り出した。
「今回のフォワードは.機密を守るよりも出来上がりのいい車を作るのが目的です。だったら,試作車を川崎工場のラインに流してみて下さい。工場の直江課長とは,1時間,量産ラインを空けることで話をつけてあります」
通常,この段階では生産の技術陣が設計に参加して意見を述べることはあっても,研究試作車をラインに流すことなどあり得ない。目安としては,これより9カ月から10カ月後、量産試作車ができてからラインを流してみるのが一般的なスケジュールだ。
実現すれば,工場のラインに適した図面作りがより効率的に行えるが,そんなことが本当にできるのかどうか,稲生常務にも自信はなかった。結局、判断に迷って関社長に電話をした揚げ句,「いいじゃないか,やってみろ」の一言でこの試みが実現し,生産段階での図面変更の回数を,以前の5分の1に減らすのに成功している。
開発陣が唯我独尊に陥らないよう,販売現場との連携もシステムとして実行した。開発の初期構想をまとめる段階で,チームの柱となる課長クラス39人を,丸2カ月間,販社へ派遣。セールス,サービス,管理部門などの販売の現場に密着することで,生の声を吸い上げた。現場で学んできた課長の提案を上司が握りつぶさないよう,部長クラスも2カ月に1度,販売店に派遣するという念の入れようだった。
研究試作車ができてからは,反対に販社のトップセールスやサービス担当7人が2カ月に1度、泊まり込みでいすゞの開発拠点に集まり,「夜間、左折するときに左側が見にくい」といった具体的な提案を800件、開発技術者にぶつけた。最終的に提案の85%が,製品に生かされている。
言うまでもなく,部品メーカーとの共同開発は,従来にも増して強化した。新車の情報が社外に漏れることを恐れ,10社以内に限定していた部品メーカー技術者の初期図面への参加を,数十社の規模にまで拡大。その会社が生産する部品の図面だけではなく,全体の図面にも目を通せる仕組みに変えた。
三菱自動車工業で,トラック・バスの開発を担当する鈴木元雄常務は,いすゞの開発の変身ぶりを耳にして,こう感想を漏らす。
「確かに素晴しいやり方ではあるが,うちでは難しい。例えば販売店に開発陣を派遣しようと思っても,ディーラー側の混乱、開発現場が手薄になることなどマイナス面が無視できない。いすゞさんの場合,それだけの危機感があった時だからこそ,新しいやり方がすんなり通ったんだと思う」
いすゞの再建は,基本的にはこの「グループ全体としての危機感の共有」が底流に流れている。483億円の経常赤字転落,それに続く乗用車生産からの撤退。「乗用車をやめる話を正式に聞いたとき,うちもそこまで悪くなっているのか,と改めて驚いた」。こう口にする社員は決して少なくない。
「来年度も利益継続」が復配の条件
現場にいすゞの窮状を理解する土壌が出来上がっていたところへ,関社長が描いた再建の青写真がうまく重なったことで,黒字基調の定着までは予定通り,走り抜けることができた。
とはいえ,復配に向けて険しい道のりが続くのは,現在も変わりがない。いすゞは1ドル=90円を前提に,96年3月期の当期利益は300億円と,実質的には前期よりやや落ち込むと見込んでいる。97年3月期に復配を目指しているが,その時10%配当するには200億円程度の当期利益を継続することが最低条件だ。
有利子負債額の引き下げも急務だ。銀行筋によると94年10月期の3900億円から96年3月期には3300億円まで引き下げが進むが,「資産合計が9314億円だから,2000億円くらいが適正水準」。手綱を緩めるのは禁物だ。
米国工場,SIAもようやく実質的な黒字に転じているとはいえ,年間の純利益はせいぜい10億円前後と見られる。数百億円ある累積損失の一掃は,見通しが立っていない。合弁相手である富士重工が,ここにきて生産を落としているのも心配の材料だ。
「いい子になったら何もできない。しがらみを断って,泥をかぶる覚悟はできている」と関社長の決意は揺るがない。復配、その後の完全復活に向けて,心労の耐えない日々は続く。(寺山 正一)