沖縄技術研修生の思い出
私が初めて沖縄技術研修生に出会ったのは昭和36年の春のことでした。私は同年4月1日、いすゞ自動車に入社して人事課教育係に配属されたばかりの新入社員でした。社会に出て初めての仕事が沖縄技術研修生のお世話をする仕事でしたので、研修生と一緒に過ごした日々のことを今でもよく覚えています。研修生の技術指導そのものは技術部門が担当していましたので、私が研修生と顔を合わせることは少なかったと思います。
当時、人事課教育係では研修生が技術を習得するための総合企画、研修を実施する技術部門との調整などが主な仕事でしたが、もう一つ、滞在期間中によい思い出を残していただくための体験ツアーやレクリエーションも担当していました。
「研修生が心から楽しんで、将来、思い出に残るような企画を立てなさい」という宮崎太郎係長の指示が新入社員である私にとっての初仕事でした。私はおおいに張りきってプランを立てました。学生時代、登山が大好きでしたので、すぐにアイデアが浮かび、夏の北アルプス上高地での焼岳登山、秋の山中湖の保養所に合宿しての富士登山を企画し、研修生と一緒に楽しみました。
私が今でもよく覚えているのは登山の前日に宿泊した宿舎での宴会の思い出です。当時はカラオケはありませんでしたが、皆さん一人一人が沖縄の民謡を歌って楽しみました。誰かが私に「てぃんさぐの花」の歌詞の意味を教えてくださいました。それは「親の恩の深さ」だったと思います。今でも「てぃんさぐの花」の哀愁ある歌声が大好きです。私はアルプスの「エーデルワイス」を歌いました。おおいに飲んで歌った青春の一ページが今でも甦ってくるようです。
同年11月には藤沢工場に転勤になったので、研修生との触れあいはとても短い期間でした。
その後、私は人事部を離れて、国内営業、そして海外営業に移り、アフリカと北米でのビジネスを担当したりしました。
平成8年12月、満60歳で定年退職をしたあと、「人と情報の研究所」という会社を設立して元気で過ごしています。
35年間のサラリーマン生活ではいろいろなことを体験しました。一コマ一コマが走馬灯のように脳裏に焼き付いています。その中でも特に印象に残っているのが沖縄技術研修生と過ごした楽しいひとときのことです。研修生のリーダーとして人事課教育係との橋渡し役を担当していたのが比嘉堅さんでした。比嘉堅さんが沖縄に帰ったあとも年賀状の交換だけは続けていました。私は人事部に所属していた頃、採用のために一回だけ沖縄を訪問したことがあります。身体が動くうちに、もう一度だけ沖縄を訪れてみたいと考えているときに比嘉堅さんからお手紙をいただきました。「いすゞ自動車技術研修史」の原稿の執筆依頼です。その連絡のやりとりをするうちに私はこの機会に比嘉堅さんに会ってみたい、ひょっとしたら懐かしい人たちにも会えるかもしれないという気持ちが高まり再び訪れることにしました。
平成17年2月5日の朝、比嘉さんは那覇市のホテルに迎えにきてくださいました。まさに44年ぶりの再会です。沖縄国際大学を訪問してヘリコプターの墜落現場を見学したあと研究室で懇談、屋上から普天間基地を見せていただきました。夜には那覇市にある沖縄料理店「ふみや」に比嘉堅さん、又吉定夫さん、田場典正さん、前田光男さん、祝嶺春雄さん、輿儀正俊さん、中曽根長徳さんの7人が集まってくださいました。いすゞ自動車で学んだ時代の懐かしい話を中心におおいに盛り上がりました。皆さん一人一人がそれぞれの道を切り拓いて活躍し、沖縄を支えてきたことを知って嬉しくなりました。
このたびの沖縄の訪問でいろいろなことを学ぶことができました。比嘉さんの著書「涙の経済と教育」を読んで、沖縄での戦いがどれほど悲惨だったのかを知りました。また基地問題にも関心を持つようになりました。また首里城公園、舞踊館「うどい」、那覇空港の特設舞台で琉球舞踊と民謡を楽しみました。東京に帰ってからも、沖縄民謡のCDを毎日、聴いています。沖縄民謡の旋律と歌声はなぜか心を癒すような感じがするからです。「いすゞ自動車技術研修史」の編纂がきっかけで44年ぶりの再会が実現して、人生の不思議さを味わうことができました。
なぜ44年ぶりの再会が実現できたのか、を考えるとき、数年前に亡くなった宮崎太郎さんのことを思い出します。宮崎さんが私に話してくださった言葉、「沖縄の人たちは戦争で大変な苦労を重ねた。そして今は米軍の占領下にある。家族と離れて遠くから研修に来ている若者たちがこれからの沖縄を再建する。いすゞでの研修生活がいつまでも心に残るようにお世話をするように」を受けて私は心をこめて沖縄研修生に接しました。三宮吾郎元社長の想いを受け継いだ宮崎太郎さん、また技術指導に関わった多くのいすゞ関係者の心の波動が沖縄技術研修生の心に響いて「いすゞ自動車技術研修史」を編纂して次の世代に残そうという動きになりました。44年ぶりの再会を導いてくださったのは今、天国にいる宮崎太郎さんだと私は思っています。
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