〈世の中を豊かにするために人は会社をつくった・・・会社は世の中のためにある。会社は人間のためにある〉
サラリーマンの哀感をミュージカルにして全国を巡回する劇団「ふるさときゃらばん」が上演して評判をとった「裸になったサラリーマン」の中で繰り返し歌われるフレーズである。「このミュージカルのモデルはいすゞ自動車だ」ともいわれている。事実、このミュージカルのために、「ふるさときゃらばん」ではいすゞ自動車の「100人委員会」の人たちに取材の協力を得たという。
その100人委員会とは何かー。
「いすゞ自動車の風土改革に取り組む社員たちによる自主的な活動集団です」と、世話人の一人である北村三郎氏(管理部門担当役員付部長)が説明する。北村部長によると、企業改革には次の三つがある。
@リストラクチャリンク=戦略の改革
Aエンジニアリング=仕組みの改革
Bリマインディンク=社員の意識・行動の改革。
この三位一体によって企業改革はうまくいくものだが、風土改革は、とくにリマインディングの部分を担う。つまり、“心・技・体”でいえば、会社の“心”の面をよくしていくことであろう。
いすゞ自動車でこの100人委員会が始まったのは1992年11月のことだった。同年2月に社長が交代。前社長退任の理由は、91年10月期決算で473億円の赤字を出し、無配に転落ーという責任にあった。なぜそんな経営不振に陥ったのか、原因は明らかだった。TQC(全社的品質管理)活動を推進していったあげく、逆効果で社内が活力を失ってしまったのである。
現在の関和平社長が就任したとき、次のような社員へのメッセージを発表している。
「いすゞは全社的に異常な高コスト体質に陥っているのではないか。形式主義、机上論、セクショナリズムがはびこり、全社的に活力に乏しく、持てる力が発揮されていないのではないか。これはつまるところ、経営風土・企業体質の問題につきる」
そして、関社長自らが誓った。「私が風土改革の先頭に立ち、私自身がまず変わります」
日産自動車の「変わらなきや」キャンペーンよりも前に、いすゞ自動車は社長が「変わります」宣言をしていたのである。それは、TQCからの訣別であり、同社の風土改革とは、TQCによって複合汚染された職場環境を浄化する人間性回復運動でもあった。トップセミナーで洗脳された社長
いすゞ自動車がTQC活動を開始したのは、84年2月、飛山一男社長が就任した直後だった。社長の直轄機関としてTQC推進室が開設され、生産技術本部長だった重松規一常務が初代室長に起用された。スタッフには各部門から12〜13人の優秀な人材が抜擢され、精鋭集団を形成。その一人で後に最後のTQC推進室長になった鷲野嗣郎氏が振り返る。
「重松室長は東大工学部卒の理論家肌の人だったが、社長の指令を受けて張り切り、TQC関係の文献を大量に買い込んで猛勉強をやった。まず自分が理論武装して、自分で論文も書き、役員会ではTQCの先生になって講義を延々とやり、役員たちにも宿題を出して勉強させ、彼らを牛耳っていった」
TQC推進室が参謀本部のような戦略機関として役員会をも支配し、全社を掌握したのである。室長の背後には社長がいる。その“トラの威”を借り、TQC推進室は思うままに権力を行使した。
まず、常勤役員の全員に日科技連の品質管理セミナーの重役特別コースを受講させた。続いて、部長を、そして課長を各コースに送り込んだ。社内の上から下へとTQC教育を徹底していくことにより、万全の推進体制を整えたのである。
にもかかわらず、いすゞ自動車のTQC導入は大失敗に終わることになる。なぜか?ー。社長自身がTQC教育によってマインドコントロールされた結果、大きな誤断を犯してしまったからである。
そもそも、飛山前社長がTQCを導入した意図はどこにあったのか。
「社長に就任してまず思ったことは、企業体力をつけて一日も早く復配しようということでした」と、飛山前社長は権力の絶頂にあったころ、月刊誌の取材でそう語っている。彼が社長に就任した当時もいすゞ自動車は営業不振で58億円の赤字、無配という状況だった。この苦境から脱け出すには“企業体力”をつけなければーと思ったのも無理もない。しかし、その方法としてなぜTQCだったのか。
「飛山さんは、就任祝いの宴会の席で協力会社の社長からTQCを勧められ、その気になった」と、100人委員会の世話人の一人が明らかにする。「当時、自動車会社はどこもTQCをやっていて、とくにトヨタがTQCで協力会社を巻き込んだオールトヨタ体制を築き上げ、成功を収めたから、いすゞもTQCでオールいすゞ体制をーと、協力会社の社長たちから飛山さんは持ち上げられたんです」。
企業体力をつけるには、足腰に相当する部品メーカーなどの協力会社と一体化して経営基盤を強化するのが早道である。その「オールいすゞ」体制をつくるにはTQCのマニュアルを使うのが手っ取りぱやい。飛山前社長はそう判断した。「飛山さんは自分から率先して日科技連のトップセミナーに参加した。その合宿研修から帰ってきたら、飛山さんはすっかりTQCに洗脳されてしまっていた。何を考え、しゃべるにも、とにかく『TQCではー』だった」。
飛山前社長はまるでTQC教に入信したかのようにTQCを信奉し、経営のバイブルにした。「みんな、盆踊りの輪の中に入るんだ」と、TQC活動を盆踊りにたとえて社員に呼びかけ、一心不乱の熱狂へあおった。「デミング賞挑戦」という悪魔のささやき
最初のうちは、いすゞのTQCはう5円の復配を果たした。飛山前社長は積極的な経営に打って出た。
資本提携しているGM社との関係を強化し、GM系列のロータスの乗用車を生産・販売。オペルと提携し、高級車「オメガ 3000」を発売。それまではトラックなどの商用車が主力だったが、乗用車へチャレンジして「いすゞ」の企業イメージの刷新を図った。その国内市場進攻作戦として、富士重工業と提携し、いすゞ「ビッグホーン」とスバル「レオーネ」を相互に生産・販売する補完関係を結んだ。
勢いづいた飛山前社長は、社員の大半がエッ!?と驚いたという大計画をぶち上げた。それは、東京・大森に立地する本社の約27000平方メートルもの敷地を活用して「いすゞの街」に再開発するというビジョンだった。その建設費を捻出するために敷地の5分の2を第一生命に売却し、約230億円の益を得た。
5年ぶりの黒字・復配はこの本社売却益があったからーという見方もある。
ともかく、飛山TQC体制はうまく軌道に乗ったように見えた。そして、飛山前社長は野望をいだいた。
いすゞ自動車は、石川島造船から1937年(昭和12年))年に分離独立した名門企業であり、戦後間もなくまでは、トヨタ、日産と肩を並べて「自動車御三家」と呼ばれたものである。その輝かしい時代に入社した飛山氏は、南極の昭和基地で活躍した雪上車のエンジンを開発したという経歴を誇るエンジニアだった。社長になり、あの栄光をもう一度ーと夢を描いたのだろう。
その図面が、「いすゞの街」建設計画であり、ここをCI発信基地にして、乗用車市場で「御三家」に復活を遂げる。それをやってのければ、自分は「オールいすゞ」に君臨する「いすゞ中興の祖」となれる。
このような自己陶酔に飛山前社長が陥っていたとき、もっと有頂天になってしまう言葉が彼の耳に響いた。「いすゞさんもそろそろデミング賞に挑戦したらどうかね」これは、悪魔のささやきだったーと後になってみれば飛山前社長も悔やむ甘い誘惑だった。企業内いじめ地獄
いすゞ自動車はTQCの推進で早稲田大学のある教授に指導を受けてきた。毎年、暮れには、その教技を慰労する忘年会を開いた。会場はいつも都内の超のつく一流料亭だったという。飛山前社長が教授と杯を交わし、いい気持ちになったところに、くだんの教授から「デミング賞挑戦」が持ちかけられた。
飛山前社長は「うちにはとてもそんな力はありません」とはじめは乗らなかった。実は、いすゞ自動車は20年前の1965(昭和40)年ごろにもTQCを導入してデミング賞に挑み、失敗した苦い経験があった。だから今回は慎重になり、「TQCはやるがデミング賞に挑戦はしない」という申し合わせが経営幹部たちのあいだで交わされていた。にもかかわらず、飛山前社長は酒に飲まれるようにして教授の口車に乗せられてしまう。
「デミング賞はもらうものじゃなく、獲るもの。私が獲れるようにしてあげますから」とそそのかす教授に、「えっ、本当ですか、先生」と 飛山社長は舞い上がった。
88年2月、デミング賞挑戦を内定し、89年6月、正式に挑戦を宣言。それに合わせて、TQC推進室長は飛山社長直系の吉橋栄一氏に交代し、チームも刷新して挑戦の態勢を整えた。
それは、社員にとってみれば、“いすゞTQC地獄”の始まりだった。
「いすゞ自動車は、よくいえば『育ちのいい会社』というか、社内の人間関係も温かい社風だった。だから、組織を管理で締め付けるTQCなどはもともと合わない。そのうえに、デミング賞に挑戦だなんてむちゃくちゃなことを始めたものだから、人間関係がズタズタに引き裂かれ、お互いが疑心暗鬼になっていじめあうという、すさんだ職場に一変してしまった」と、100人委員会世話人の北村三郎部長が、デミング賞挑戦によって起きた職場の悲劇を赤裸々に語る。
社員たちが「お立ち台」と呼んでいた儀式があった。デミング賞受審の準備として、社長以下全役員の前で職場の問題解決を発表する「社長診断」のことである。毎月一回、各部門ごと順に開催された。
そのお立ち台に上がり、発表するのは部長だったが、発表のあと、居並ぶ指導官の先生方から質問攻めにあう。部長が答えに詰まると、容赦なく罵声が浴びせかけられ、満座の中で恥をかく。
この恐怖のお立ち台を無事に通過するために、部長たちは何をやったかー。本来の業務には関係のないTQCのための改善事例のデッチ上げに知恵を絞り、奮闘努力したのである。
社長診断でいい採点をつけてもらうために、他の部門で好評だった改善事例を研究し、それを焼き直し、改善のストーリーをつくり上げる。改善効果があったと見せかけるために、数字データを捏造する。目標達成のノルマを消化するために、データ集めや図表作成に月200時間もの残業をやる。発表のリハーサルのために休日返上で合宿する。部長は課長に、課長は社員に、あるいは協力企業に対して、このような“虚構の業務”を押し付けた。「日常の業務は空洞化し、ひたすらデミング賞受審のために社員はヤラセとつじつま合わせに走り、まるで受験勉強に追われるようにして、ごまかし仕事に精を出した」。
良心の呵責にさいなまれた社員たちは、精神的な苦痛に打ちひしがれ、出社拒否し、退職していった。社員が会社を活性化させる
デミング賞に挑戦するとは、いすゞ自動車にとっては、経営の虚構化へと転がっていくことにほかならなかった。奈落の底に落ちてしまう前に止めないと、いすゞ自動車の歴史が柊わってしまう。後に100人委員会へと発展する北村部長たちの地下組織がこの危機感から生まれ、彼らの非公式活動が開発部門の若手課長クラスを中心にして開始される。そして、生産部門の若手課長たちも立ち上がり、公然と社長に反旗を翻した。91年2月、いすゞ自動車はデミング賞を断念。同年11月に開催されたQCサークル大会は、場内騒然のTQC批判集会と化した。最後のTQC推進室長になった鷲野嗣郎氏は社長と刺し違えるよつにして「TQC中止」を迫り、部下を配置転換してTQC推進室を解体。
92年2月、飛山一男社長が辞任。後に残ったのが、473億円の赤字だった。代わって誕生した関和平社長のもとで、北村部長らが世話人の非公式活動が正式な「100人委員会」として発足。関社長は各部門、各職場で社員との対話集会を重ね、それぞれの部門、職場ごとに100人委員会が結成されていった。その目的を北村部長がこう語る。
「仕事には数値で表すことができない人間の感性や感情の側面もある。TQCは、その仕事に携わる人間の尊厳を踏みつぶして、まるでブルドーザーが自然を破壊するよつな乱暴さで推進されていった。自分がつぶされずに生き残るには、TQCの旗をかついで他人をいじめるしかない。子供にはとても見せられないみじめな姿になって、お父さんが会社の中でいじめられている。学校を笑えない“企業内いじめ”がはびこっていた。が、TQCのためには“企業内いじめ”も正当であると社員たちはマインドコントロールされてしまっていた。そのマインドコントロールを解くことが100人委員会の最初の段階の役割だった」
100人委員会では、経営幹部から若手社員まで自由に参加し、肩書きをはずして車座になり議論するオフサイトミーティングを展開。「会社が社員を活性化するのではなく、社員が会社を活性化する」、「いい会社をつくるとは、いい仕事のできる環境をつくること」というような問題意識を共有して、社員たちは風土改革に個人参加していった。
94年10月期決算でいすゞ自動車は47億円の黒字を計上し、復配へのメドもつけた。まる3年をかけて、同社は「人間のためにある会社」に生まれ変わったのである。