プロローグ 会社は誰のためにある
 
窓際部長の反乱
 
肩書は部長であるが、部下はいない。部の名もついていない。所属する部が実在しない。しかし、地位は部長である。
 管理部門担当役員付部長 −。自ら「窓際部長」と皮肉るこのポストでの仕事を最後に、北村三郎は36年間勤め上げた会社を満60歳をもって定年退職した。
 退職前の半年は部長の肩書も解かれ、人事部員として無為に過ごした。入社したときの平社員に戻り退職したのである。
 振り返ってみると、北村三郎が1961年に早稲田大学を卒業して入社したときの同期は、大学卒で事務職が55人、技術職が60人いたはずだが、誰一人として会社に残っていなかった。40代のころから、同期の子会社への転出が始まり、50歳をすぎたときにはもう数人しかいなかった。彼らもトランプのババ抜きのように抜けていき、最後まで残ったのが北村三郎だった。
 同期のなかでたった一人、定年を全うしたのであるが、しかし、北村三郎が引いたカードこそが実はババだったのかもしれない。
 部長として、北村三郎が定年までに残されていた5年間、担った職務は、およそ非生産的な、会社の営業利益には結びつかない仕事だった。
 彼がその任務についたとき、社内に彼を理解する者がどれほどいたか、はなはだ疑問だった。だが、彼は、自分自身が望んで、たった一人で立ち上がるようにして、挑んでいった。
 そういうことでは、このババは、彼が自分でわかっていて引いた最後のカードだったのかもしれない。サラリーマン人生の最後を締めくくるのに、彼はあえて窓際部長に身を置き、誰もやりたがらないババの役目を仕事として自ら買って出たのである。
 その彼の仕事とは、「風土改革」という名のもとに組織活性化の社内運動を起こし、推進することであった。
 この会社の荒廃した組織を活性化するには、企業風土を改革しなければならない。
 北村三郎は、30年もサラリーマン人生を過ごしてきた会社の惨状を見て、思いここに至り、窓際部長の反乱という個人的行動に走っていったのである。
 彼が起こしたこの風土改革はドラマチックな展開をして社外に知られるところとなり、ミュージカルにもなって上演された。
 サラリーマンの哀感をテーマにして大衆に泣き笑いの共感を呼び起こし、全国を巡回公演して話題になっている「ふるさときゃらばん」という劇団がある。この劇団のヒット作である『裸になったサラリーマン』という題名のミュージカルは、実際にサラリーマンたちに取材をしてストーリーが構成されていたが、それには、北村の会社の社員たちも大いに協力して、材料を提供した。
 このミュージカル『裸になったサラリーマン』のなかで、『会社は人間のためにある』というテーマソングが繰り返し歌われる。
 〈世の中を豊かにするために人は会社をつくった。会社は時代とともにある。会社は世の中のためにある。会社は人間のためにある ー )
 この歌のように、人間性を回復する職場環境へと企業風土をつくり直すことに、北村三郎はサラリーマン人生の残りの5年間を注ぎ込んだ。そして、その最後の仕事をサラリーマン人生で最も充実した記念碑的事業に成し遂げた。
 今では、彼が起こした人間性回復運動は社内に広く展開されて、風土改革は浸透し、会社の組織の空気は新鮮に入れ替わった。それに並行して、会社の業績はぐんぐんと回復していった。

 戦後をどのように生きてきたか
 北村三郎の会社は、日本の20世紀後半の経済的発展を牽引したといってもいいだろう、自動車業界にあって、歴史は最も古く、戦前からトラックの製造を手がけ、ディーゼルエンジンではトップの技術力を誇ってきたメーカーである。今でこそ自動車業界は、トヨタ、日産、ホンダ、三菱‥‥という勢力順位になっているが、かつて、昭和30年代までは、北村の会社がトヨタ、日産に並び「御三家」と称せられていたものである。ところが、昭和40年代になると、新興のホンダにシェアを食われるようにして御三家から滑り落ち、経営は悪化の一途をたどり、アメリカのビッグスリーの資本支援を受けて立て直すという低迷状態に陥ってしまった。
1970年代、自動車業界は輸出攻勢に拍車をかけて日本の貿易黒字の増大にひたすら邁進し、ビッグスリーを脅かすほどに急成長していったが、北村の会社は長期低迷状態から抜け出せないままに80年代に入り、世の中があげてバブル景気に躍り出していった84年、ついに無配に転落した。
 その年の2月、再建を担って登場した新社長は、就任するとともに、再建手段としてTQC (全社的品質管理)活動の導入を宣言した。そして社長直轄のTQC推進室を設置し、全社あげてのTQC活動を開始していった。
 表面的には、このTQC活動は経営に効果をもたらしているかに思われた。88年の決算では147億円の黒字を計上し、5円の復配を達成した。
 その業績回復の余勢に乗じて、社長は、88年2月、TQC活動の栄誉であるデミング賞への挑戦を宣言した。そして、89年6月、正式にデミング賞の受審へ向かっていった。
 ちょうどそのとき、北村三郎は4週間もの長期休暇から職場復帰したばかりだった。会社が「リフレッシュ休暇」の制度を実施し、まず部長職から希望者を募ったが、彼はまっさきに手をあげて、この制度の利用者の第1号になった。
 このときの北村三郎の職責はIJS推進室長という部長職だった。IJSとは事務合理化活動のことで、TQC活動を補完するようにして工場改善活動のIPSに続いて導入されていた。
 IJS推進室長の前は、彼は海外部品部長だった。その前は、北米第二部長だった。さらに前は、太平洋アフリカ部次長だった。脂の乗りきった40代、彼は自動車会社の営業幹部として世界を駆け回っていた。
 50代になってから、IJS推進室長として本社中枢のスタッフに戻ったのだが、その異動は後にとっては出世願望を満たしてくれるどころか、「自分の前途は真っ暗で、職場逃避したかった。会社にはもう行きたくないという気持ちばかりが募っていた」と、出社拒否症候群のような精神的疲労状態に追い込まれていった。
 そこへ、リフレッシュ休暇制度が発表され、彼は救いをここに求めた。そして、4週間という入社して以来の最も長い休みをもらうことになった。
北村三郎はこの長期休暇を利用して何をどう過ごそうか、考えた。ただ漫然と骨休めをするにはもったいない。日本の高度経済成長に加速がかかった61年の入社という世代に特徴的なことだろう。「それまでの自分は、会社という枠組みのなかでひたすら働くばかりのモーレツな会社人間だった」と認める彼には、4週間も何もしないで、ただ遊んで過ごすことなどはできなかった。何か有意義なことをと考えたとき、彼に、一つの休日のテーマが浮かんだ。
「50歳をすぎ、入社して30年近くがたったが、その過去を振り返る暇もなく、仕事にばかりモーレツな会社人間で生きてきて、それが自分の人生にとって、どういう意味を持っているのか、ここで考え直してみたくなった。すると、いろいろな思い出とともに、もうずいぶん長いこと会っていない友人たちの顔が懐かしく浮かんできた。同じ時代を歩いてきた旧友たちは、みんな、どんな思いを抱きながら、ここまで長い時間を生きてきたのだろうか。彼らの気持ちを知りたくなった」
 北村三郎は、リフレッシュ休暇を利用して、旧友たちに会ってみようと思った。旧友を訪ねる旅−−である。ちょうど、昭和が終わり、平成が始まったという区切りの時だった。その旅は、「きみは、戦後の昭和という時代をどのように生きてきたのか」と旧友たちに尋ねて歩く旅でもあった。
 それに、このアイデアに、もっとロマンティックな香りのするヒントも、彼は楽しんでいた。
 彼は、高校時代に見たフランス映画の『舞踏会の手帖』を思い出していた。
 大地主夫人として湖畔のお城で賛沢三味に暮らしていたヒロインが、夫と死別して、ふと若いころの思い出に浸り、舞踏会で自分に愛を囁いた男たちが今どうしているのか、知りたくなり、彼らの住所を調べ、訪ね歩く。
「この映画では、若いころは正義と希望に燃えていた男が悪党になっていたり、堕胎医になっていたり、人が生きるということの妙味がにじみ出ていて、人生とは十人十色のドラマなんだと、高校生だった私に強列な印象を残してくれていた」
 北村ほ、十人十色の人生ドラマを期待して、その始まりである青春時代に時間を巻き戻す思いで、古い手紙や手帳、住所録を探し出し、旧友たちの住所調べにとりかかった。卒業した中学や高校に問い合わせて当時の名簿を取り寄せ、旧友の消息をたどった。消息不明の友人を、人づてに得た断片的な情報をつなぎ合わせて、突きとめもした。こうして、中学、高校、大学、社会人になってからと、合わせて約100人の旧友たちのリストをつくった。そのうちの69人と連絡がつき、再会の約束をすることができた。
 そして、20日間をかけて仙台から姫路まで12の都市で、一日平均3人に会って回るという、相当に強行なスケジュールだったが、北村は「旧友を訪ねる旅」を実行し、やり遂げた。
 駆け足ではあったが、北村は、戦後昭和の同時代を生きてきた69人のそれぞれの人生ドラマをかいま見たと思った。
後には、彼らと写った記念写真のアルバムが残った。その旧友たちの30年ぶりの笑顔のなかに、それぞれの人生ドラマを思い浮かべて、北村はそっと大旅行記に封印をした。
 バブル景気まっさかりだった当時、働きすぎのビジネスマンに休日の勧めや自己啓発の方法がさかんに提唱されていたが、この北村三郎のリフレッシュ大旅行は、そのケーススタディを報道する日本経済新聞の連載「サラリーマンライフ」に「心の休暇」と題して紹介された。その記事のなかで、彼は「この旧友訪問旅行は終わってみれば、自分再発見の旅でもあったのではないか」と振り返っている。
 
恐怖のTQC管理工場
 このリフレッシュ休暇によって、北村三郎は30年の心のよどみを洗い流し、それを境にして、それまでのモーレツ会社人間の生き方を改めるようになった。
 会社の要求に妥協して仕事をするのではなく、自分の判断と意思で仕事をする。そのように彼は仕事に自己基準を設定した。
 すると、会社のなかの人間集団の生態がはっきりと目に見えるようになった。
 IJS推進室の仕事で研修センターに行ったときのこと、北村が研修室のドアを開けると、部屋を真っ暗にして男たちがビデオに見入っていた。彼らは工場の部長たちであった。ビデオは、TQCの診断指導の模様を映し出していた。
デミング賞の予備診断に備えて、部長たちが日常業務を放って合宿し、受験勉強さながらに一所懸命になっていたのだ。
部長の一人が北村にこう漏らした。
 「デミング賞受審が最優先になったために、工場の本来の仕事が後回しになって遅れ、品質上のトラブルが増えて、弱っているんだ。だけど、デミング賞を取るまではしかたない」。
北村は、TQCの悪影響がとうとうここまで及んできたかと愕然とした。部長たちが仕事そっちのけでTQC活動に拘束されている。北村自身にもその経験があった。
 TQC活動が開始されたとき、北村は北米第二部長だったが、北米大陸に自社製自動車の営業支援を展開するという任務とはまるで関係のないTQC活動に時間をとられて、一日、忙殺されるということが周期的にめぐってきていた。TQCの指導講師を招いて「診断」というTQC指導会が定期的に開かれたが、その準備で部全体がおおわらわになるのだ。
QC指導会では、部門ごとに部長が「お立ち台」といわれる壇上に立ち、15分問のプレゼンテーションをして、45分間の質疑応答を行なうことになっている。
「TQC指導会は部長の能力を評価する場だ」
 ということを、北村は聞かされていた。部長がTQC講師の質問にうろたえようものなら、その場で部長失格の烙印を押されてしまう。実際に、部長が講師の質問攻めにあって右往左往するという醜態がたびたび演じられた。TQC指導会とは部長の「吊し上げ」の場ともいわれていた。
 部長が順番にお立ち台で吊し上げられる。自分だけはそんな災難から逃れたい。どの部長もそう思うから、TQC指導会をなんとか無事に乗りきろうと、一か月も前から部をあげて準備するのである。プレゼンテーションと質疑応答に備えて、膨大な資料をつくり、データをファイルし、それを30秒以内に取り出すというような訓練をする。そんな仕事にならない仕事で、TQC指導会までの1か月間は本来の業務が犠牲にされていた。
 疑問を持った北村は、TQC担当の常務に「こんなことではTQC活動は続かない。必ずコケると思いますよ」と、実情を訴えた。すると、常務から北村はこう叱責された。「みんなが一所懸命になってやっているときに、なんということをいうんだ。だから、おまえはダメなんだ。嫌なことをやるのもサラリーマンだ。そんな幸い思いをしている部下たちを応援するのが部長ではないか」
 この一件があって、北村は部長として、TQCの考課では赤点をつけられていた。さらにTQC活動が進むに伴い、北村がIJS推進室長というTQC推進室と密着した部署に異動になったのは、たぶん、改宗を迫る踏み絵も同然の処置が自分に下されたということなのだろう、と彼は思った。 
北村は、苦悩した。TQCとセットになったIJSの旗を振るなんて、自分にできるわけがない。彼は精神的な圧迫を受け、そのために出社拒否の一歩手前の疲労状態に追い込まれていった。
 デミング賞挑戦が開始されてからは、職場のあちこちで、彼が経験したと同じような精神的苦痛に押しつぶされて退職してしまう社員が続出するようになった。
 北村が工場を訪れると、かつて自分の部下だった社員がすっかり元気をなくしていた。彼は北村の部下だったときは、才気煥発で行動力にあふれる頼もしい青年社員だった。それが花がしおれたように沈んでいる。どうしたのかと北村が心配すると、彼が告白するには、「TQCでいじめにあってノイローゼ状態になった」という。
 工場には、TQC推進の鬼軍曹役として本社からTQC担当常務補佐が部長として送り込まれていた。彼はTQCを直接指揮する社長の威光を背にして、社員を吊し上げ、鞭を当てという強引なやり方でTQC活動を進めていき、部課長たちからも恐れられていた。工場はTQC鬼軍曹が支配する恐怖の管理状態に置かれてしまったのである。職場のリーダーは見せしめのように鬼軍曹の吊し上げを受け、体調を崩し、欠勤を余儀なくされていった。
 北村のかつての部下もその犠牲者の一人だった。このような職場の犠牲者が出ようとは、以前は考えられないことだった。
「この会社は自動車会社のなかでも伝統があるだけに職場の雰囲気は和気あいあいとして明るく、自由闊達な社風だった。社員は自主的に仕事をさせてもらえ、ガンバレと強制されることもなかった。上司には尊敬できる人物がたくさんいた。それがために、ぬるま湯体質で、高度成長から落ちこぼれることになってしまったのかもしれないが、しかし、働く環境としては先輩同僚の人間関係に恵まれた人間性豊かな職場だった。」
 そのよき社風が失われ、まさに「自動車絶望工場」という残酷な労働現場と化して、職場は社員同士による陰湿ないじめがはびこり、会社が暗黒の時代に引きずり込まれていっているように、北村には見えた。
「こんなTQCのやり方では、デミング賞を取ったものの、そして会社はおかしくなった、 という結果になってしまうのではないか」と、北村は案じた。早急にTQCの荒々しい流れを食い止めなくてはならない。北村は行動を起こした。
 まず、人事課長に、工場のTQC鬼軍曹を更迭することはできないか、と打診した。しかし、人事課長は「上にいってくれ」と逃げるばかりだった。そこで、北村は人事担当常務のところへ行き、訴えた。すると、人事担当常務は、「社長に評価されている者を動かすことはできない」と、すげない返事だった。
 デミング賞に向かって勢いをつけるばかりのTQCに対して、全社一丸の大集団の渦に巻き込まれてしまった社員は、その濁流に自分の意思で抗おうとする気力も失せ、流されるままに身をまかせようと決め込んでいた。
 
TQCを粉砕した特攻作戦
 北村三郎は腹をくくった。
「だったら、自分が特攻隊に志願したつもりで、一人でも立ち上がるしかない」
 北村三郎は、そう決心したとき、その心に封印してきた少年時代の思い出をよみがえらせていた。彼は1936年、東京の下町の生まれで、小学生のときに東京大空襲を体験して、子供心にも、「自分も大きくなったら、特攻隊になって空を飛んでいくんだ」という運命に夢を馳せていた。だが、終戦でその夢も消えた。
 そして、食糧難の混乱期をハングリー精神でくぐり抜けて大人になり、社会に出てからは、業界の熾烈な競争を勝ち抜いて会社に殉じる「企業戦士」を生きがいにして、高度成長の時代を突っ走ってきた。その彼の潔い行動力は社内で「韋駄天のサブ」というニックネームを頂戴したものである。
「少年時代に、お国のために特攻隊で身を捧げようと思ったと同じように、サラリーマンになってからも、会社のために企業戦士として人生を捧げる覚悟でやってきた。その最後のご奉公に、少年の自分が果たせなかった特攻隊になって出撃し、サラリーマン人生をバッと散らすのも、自分らしくていいじゃないか。かっこよくいえば、そんな生き様の美学を意識していた」と、北村は「たった一人の反乱」を決心したときを振り返る。
 心境は特攻隊ではあったが、しかし、決して向こうみずに事を起こしたのではなかった。彼は熟考して作戦を練った。
TQCを粉砕するために、自爆を恐れずに、身を投げ出し、そして、勝つ。彼は、TQCをつぶす特攻隊となってサラリーマン人生を勝利で終わらせる方法を考え、その作戦の一つとして、自分の人事を自分で決めた。
 北村は、人事担当常務に直訴して、IJS推進室長の退任と同時に子会社への転出を願い出たのである。
 その子会社は人材能力開発センターといい、自社グループの社員研修を主な事業にしているが、親会社の社内報の編集制作も請け負っていた。北村三郎はこの子会社の社長になるとともに社内報の編集長にも就任した。そして、ここをTQCつぶしの震源地にして、親会社に事変を引き起こす特攻作戦を立てた。
 この異動の辞令が出されて、挨拶という名目で、北村は親会社の社長を訪問した。その席で、北村は社長に向かって臆することなくTQC批判を述べた。もはや自分は社外の人間である。親会社をどのように批評しようと自分の自由である。
彼はそう開き直っていた。
「企業の組織を活性化しようと思うなら、TQCという形式的なことをやっただけでは効果は出ませんよ。かえって弊害ばかりが目につくようになる。花を咲かせるのに、肥料を畑にたっぶり撒けば、すぐにきれいな花でいっぱいになるわけではない。強い肥料をやりすぎると、せっかくの花も枯れてしまう。それと同じですよ。いい花が咲くようにするには、まず土壌を改良することからやらなきゃならない。この会社に必要なことは、TQCという肥料よりも、土壌改良という企業風土の再構築ではないですか」
 まくしたてる北村に対して、社長は意外にも神妙に耳を傾けていた。社長自身もデミング賞挑戦に多少の不安を抱き始めていたのかもしれない。社長が北村に質問を向けた。
 「では、わが社の土壌改良をやるには、どうすればいいと、きみは考えているんだね」
 北村は間髪を入れずに答えた。「まず、社長が社員の本当の声を聞くという、その環境づくりから始めなきゃならないでしょうね」すると、社長も応じた。「私はいつだって社員の声を聞く用意はできているつもりだが」。
 北村は、しめたと思った。この社長の言質をとったことで、北村は特攻作戦の勝負に打って出た。
 社内報の90年4月号を会社の創立記念日特集号として発行する計画を立て、その目玉企画に社長と社員の座談会を組んだ。題して「ホンネ座談会−わが社の企業文化を語ろう」というもので、全12ページの社内報の全面をこの座談会記事で埋めつくした。
 この特集号を創立記念日に全社員に配布した。それを手にした社員は表紙を見ただけで驚いた。座談会の出席者が地位や年功を無視してアイウエオ順で紹介されていて、社長の名前は8人中の6番目に並び、顔写真も若い社員たちの下の端に追いやられていた。
 本文では、ノーカット編集という方針で、TQC活動の実態が社員たちによって赤裸々に暴露されていた。
「TQC活動の成果を発表するQCストーリーづくりで取り上げられたテーマは、ほとんどが以前にすでに解決ずみだった成功例で、それを発表のために探し出してきて、データをそろえ、つじつま合わせをしているだけ」
「お客様から電話があっても、居留守を使って、TQCの資料づくりにかまけているから、仕事にならない」
 こういう社員のホンネが社長に向かって堂々と吐き出されていた。もちろん、これは、北村が仕組んだことだった。座談会の出席者を人選するのに、企画意図を理解し、勇気を持って発言する覚悟のある者だけを登場させたのである。
「子会社から親会社へ向けて紙爆弾を投げ込んだ。これがものの見事に的中した」と、北村は特攻作戦の第一弾の成功を語った。
 社内報特集号を読んだ社員たちは、それまではTQC活動に対して批判することは経営批判であるとしてタブー視されていたのだが、もはやその呪縛も解け、自由に発言ができるのだと受けとった。と同時に、デミング賞挑戦という精神的に圧迫を受けるばかりの苦しい闘いから彼らは逃れようとしはじめた。職場からはデミング賞への熱気が急に冷めていった。かわって、封じ込められていたTQC批判が、岩盤を割って水が湧き出るように、職場に流れ始めた。
 北村は、その職場の空気の変化を読みとって、特攻作戦の第二波を仕掛けた。
 自分たちの職場の活性化は自分たちで方法を考えてやろうと、TQCとは異なる自主的な活性化運動を職場に働きかけていった。非公式の地下活動のようにして、しかも、会社全体にではなく、部門ごとに順々に部分展開でじわじわと。
「体質改革活動」と呼ぶその非公式活動を最初に立ち上げたのは、TQC活動にはなじみにくい開発部門だった。90年5月、まず課長級が集まり、TQCとは異なる活性化の方法についてディスカッションしたのを皮切りに、定期的にこのオフサイトミーティングを展開。続いて、部長級も同様の会議を開催。
 この非公式活動のオフサイトミーティングが翌年には生産部門にも広がり、さらには営業部門へも波及する動きになっていった。
 非公式活動とはいえ、社内に自主的に湧き起こってきた改革運動が遼原の火の勢いを得て、もはや経営幹部たちが知らぬ顔を通せるはずもなく、また、彼らにその勢いを止める手立てもなかった。
 91年2月、御前会議、すなわち、社長を囲む役員会議において、4名の専務が申し合わせたように社長に「デミング賞断念」を進言し、社長はこれを受け入れざるをえなかった。
 同年11月、QCサークル大会が開催される予定になっていた。同社のQCサークル活動は2年連続して全国QCサークル大会で金賞を受賞するという栄誉に輝いていた。ところが、今回、この社内QCサークル大会が突然中止となった。
しかし、会場には大勢の社員たちが集合していた。大会は社員たちによって自主的に開催された。そして、発表者が次々と壇上に立った。その発表のつど、場内は騒然とした熱気に包まれていった。これまでのQCサークル活動で発表された改善事例が、いかにデータを捏造したものであったかと、やらせ、デツチ上げ、ごまかしのQC活動の実態が次々と暴露された。中止されたQCサークル大会が皮肉にもQC(品質管理)大批判大会になってしまったのである。
 このQC大批判大会を爆弾にして、同社のTQC推進室は、91年12月末をもって解散した。あくる年早々、92年2月、社長が退陣。会社はその年度の決算で473億円という巨額な赤字を計上した。
 
大企業病を治す風土改革
 新社長が誕生し、彼は就任するとともに、「社員の皆様へ」という社長メッセージを小冊子にまとめて全社員へ配布した。そのなかで彼は、(当社は、形式主義、机上論、セクショナリズムがはびこり、全社的に活性に乏しく、持てる力が発揮されていないのではないか。これはつまるところ、経営風土、企業体質の問題に尽きる。病んだ企業風土が社員のポジティブな行動、独創的な発想を阻害し、企業の活力、行動力を失わせている)と指摘していた。
 今、会社は重い大企業病の症状に陥っている。その大企業病を引き起こした原因は何か。いうまでもなく、誤った全社運動で社員を無理な管理に縛ってきたTQC活動である。8年間にも及んだTQC活動という管理経営の結果、会社はひどい大企業病に罷ってしまったのである。その実態を新社長は率直に認め、反省し、そしてこう表明した。
〈私が風土改革の先頭に立ち、私自身がまず変わります)
 この社長表明の直後、子会社の人材能力開発センター社長に出向していた北村三郎は、本社に管理部門担当役員付部長として戻された。復権を果たしたのである。
 そこから、人間性回復運動と一体になった風土改革が公然と展開されていった。北村三郎が黒子になって仕掛け、社長が部門現場に出向いて社員と討論する職場集会が連続して催された。それと同時並行して、以前の非公式活動を堂々とオープンにしたオフサイトミーティングを、グループごとに「100人委員会」と名づける委員会方式によって、部門別、職場別に順に立ち上げていった。
 そのネーミングの由来は 『週刊文春』 に連載されている「おじさん改造講座」の「OL100人委員会」をまねたものだという。そんな明るさを取り戻して、公認の風土改革運動が春の野原に咲く草花のように広がっていった。
 当初は、北村三郎の計画では、役職別にまず職務権限を持っている部長たちだけの「部長100人委員会」として発足させる考えだった。ところが、これは誤算だった。
 会社には約160人の部長がいる。その全部長に宛て、北村は、風土改革運動に参画を呼びかける手紙を発送し、同志を募った。すると、そのうちの17人から参加の意思表示があった。約1割である。たったの1割という見方もあろうが、しかし、北村にとっては同志が社内から1割も現れたという心強さを受けた。そして、さっそく、部長たちのオフサイトミーティングを開いた。ところが、話題はちっとも盛り上がらずに、「昔のわが社はいい職場だった」という昔話に終始し、風土改革というテーマに取り組むうえでの具体策が何も出てこなく、3回、4回とミーティングを重ねても、前進が見られなかった。
 5回目のミーティングを研修所に1泊2日の合宿をして開いたときだった。予告もなく、工場の係長クラスの若手社長たち4人が入ってきて、「上の人たちが風土改革をやっでいるそうだが、自分たちも参加させてほしい」と飛び入り参加を申し出てきた。ミーティングはたちまちにして盛り上がっていった。若手係長が部長たちに議論を吹っかけ、部長たち
がたじたじとなって答え、ディベートの熱気を帯びて、昔話の堂々めぐりではなく議論でミーティングが回り出した。
「運動体は、同質の集団よりも、異質をミックスしたほうがエネルギーを得て回転する」と、北村は気づいた。そして、次からは、若手社員の飛び入りを歓迎することにした。すると、50人もの参加者があった。議論は若手社員がミーティングを乗っとったような活気を呈して運ばれていった。
「会社が社員を活性化するのではなく、社員が会社を活性化する」
 この風土改革運動の原則をしっかりとつかんで、1993年1月、「100人委員会」が専務を委員長にして正式に旗上げされることになった。
 運動への参加はあくまでも社員の自由であり、活動も自主的であり、目的とする改革の主体もまた社員にある。したがって、誰が誰と組んで、どこの職場で100人委員会をつくろうとも、社員の自由である。
 そういう個人の自由意志の集合体として運動を起こしたから、一つの100人委員会が細胞分裂を起こすようにして、あちこちの職場で自分たちの100人委員会が連鎖的に生まれていった。川崎工場100人委員会、栃木工場100人委員会、北海道工場100人委員会、粗型材工場100人委員会、藤沢工場100人委員会、小型開発100人委員会、生産技術100人委員会、ボディ工場100人委員会、商品企画100人委員会、取締役100人委員会一−というように、その数は93年の1年間で30グループをゆうに超えた。
 それぞれの100人委員会では、職場の仕事に現れている大企業病の症状を特定していった。いわゆる「やらせ、やらされ病」「つじつま合わせ病」「やったふり病」「いきすぎた部分最適病」「いじめ」など、そして、これらの症状の原因となった「TQC菌」を職場から退治していった。
 その結果、会社は元気を取り戻して、94年の決算で47億円の黒字に転化。続いて、95年には30億円、96年には240億円へと経常利益を伸ばして、業績を急回復させていった。
 同社の経営は、得意とするRV車の売れ行き好調、環境にやさしいディーゼルエンジンの需要増が追い風になって、さらに健全化が期待されている。北村三郎は、会社の完全な復調を見届けて、パパのカードをスペードのエースに取り替えたような鮮やかさを社員たちに印象づけ、定年退職した。
 
TQCとはなんだったのか

 その彼の会社とは、いすゞ自動車である。
 このケースを一つピックアップして事実を検証しただけでも、戦後の企業に日本的経営の手法として導入されてきたTQCとは、いったいなんだったのか、という大きな疑問が沸き上がってくるだろう。
 TQCとは、TOTAL QUALITY CONTROLの略称で、その文字どおりに解釈して、全社的品質管理と呼ばれてきた。だが、実態としては、本来のQCの品質管理はTQCの一部分をなすにすぎない。正確にいえば、TQCは品質管理とは次元を異にする経営のための管理技術、すなわち、経営管理の手法である、と考えたほうが当を得ているであろう。
 日本の企業の特性を指摘して「日本的経営」というとき、それを特徴づける経営手法とは、TQCをもってして説明されることである。
 戦後、復興期にTQCは日本的経営法として萌芽し、1960年代に製造業に導入されていき、70年代に隆盛を見て、80年代になるとさらにサービス業にまで拡大していった。
 その光と影、功と罪は、実態としていかなる評価がなされるべきものなのだろうか。戦後50年を経て20世紀の幕が下ろされようとしている現在、正しい検証がなされる必要があると考えられよう。
TQCにはデミング賞という栄誉が制定されている。受賞企業は業界のスポットライトを浴びてTQCの成功例として紹介されてきた。しかし、失敗例は決して表沙汰にされることはなく、かたく伏せられている。いすゞ自動車と同じ辛酸をなめた企業はた〈さん存在し、デミング賞受賞の成功例はTQC導入企業群の氷山の一角にすぎないのである。そのデミング賞企業ですら、受賞後に経営上の問題に苦しむようになったケースは数多い。なかには倒産した会社もある。
 デミング賞受賞企業は何において優れた会社といえるのだろうか。TQCとは本当に正しい経営法といえるのだろうか。
 そういうこともうやむやのうちに、TQCは96年をもってTQM(経営品質)と呼称を変えて、日本的経営を象徴する記号としては消滅した。
 実質的にも、もはやTQCは滅んだ、といってもいいだろう。いすゞ自動車はデミング賞挑戦の悲惨な挫折とともにTQC活動を打ち切ったが、そのようにして、あるいはデミング賞へ挑む前に、樹木が立ち枯れるようにしてTQC活動が衰弱していった会社は表面化こそしないものの数限りなくある。その実態はTQCの推進機関である日本科学技術連盟(日科技連)が開催するセミナーに参加する企業の数が激減していることでも明らかであろう。
 TQCが滅んだ要因の第一には、日本の産業界を取り巻く環境の変化が指摘されよう。簡単にいってしまえば、時代が変わったのである。21世紀を目前にする今、その新しい時代に対応して、企業はもうTQCのような古い経営法は必要としていない。この硬い殻を破って柔らかく脱皮しないことには、企業は、世界標準のスピード経営でもって環境文明と共生していかねばならない21世紀に、よい会社として存続を維持していくことができないだろう。
 賢明な企業は、そんな経営環境の変化を見通して、TQCという組織の呪縛を振りほどいた。
 その事実が表面化したケースが、90年代に入り、企業に相次いで断行された組織改革である。日本的経営を特徴づけていたピラミッド型組織を壊してフラット型に改革した企業が、トヨタ自動車をはじめ、戦後の日本を牽引したリーディングカンパニーから順に輩出した。
 この企業のピラミッド組織が崩壊すると同時に、戦後日本の企業を画一的に均質化して集団主義を強化し、業界のムラ社会を構築したTQCも、自然消滅の道をたどったのである。
 そういう視点に立てば、TQCとは日本の戦後体制の仕組みの一本の柱を担った組織管理の手法であったということが、歴然と見えてくるだろう。その組織管理の手法としてのTQCは、企業のみならず、社会全体にも影響を及ぼし、偏差値を基準にする管理教育に代表されるように、戦後の日本的システムのベースにすらなっていた、と考えることもできよう。
戟後日本はTQC社会として構築され、管理されてきたのである。
その戦後の繁栄を目指して、日本的システムとしてのTQCによって日本では復興が成し遂げられ、高度経済成長が達成され、そして経済大国に押し上げられていったと、TQCの成功神話を信奉する経営者もいるだろう。そういう戦後の論理をいまだに振りかざしてTQC肯定論を大東亜戦争肯定論のように唱えてやまないアナクロニズムに酔う評論家も存在する。しかし、その戦後という時代はとうにすぎ、また、戦後体制によって築かれた経済大国もバブル景気の破裂とともに歴史のなかの一瞬のまぼろしと消えたのである。と同時に、そのパラダイムとなっていたTQCも残骸をさらすばかりになってしまった。
 もはやTQCは、その肯定論者たちがどんなに笛を吹き鳴らしたところで、環境の変化にはついていけずに力を失ったまま、息を吹き返すことはないだろう。
 思えば、TQCは、戦後の産業界に跋扈した恐竜のようなものであった。企業はTQCザウルスに乗っかって巨大化し、企業藩の王国を築き、業界の覇権を争った。そして、ピラミッド体制を膨らませるだけ膨らませ、その巨体を誇った。TQCを組織の論理にして、企業自体もまた恐竜化を目指していったのである。そして、大企業病がはびこった。
 そのプロセスを正確に分析するならば、ひたすら欲望の論理の達成を目標にして成功体験を追い求める企業の経営者の魔性というものにTQCが巣くい、日本的経営を恐竜への道にミスリードしていった、ということができよう。そういうTQCを操り、経営者を幻惑する怪しげな魔術師たちが実在したのである。
 TQCの魔術によって、会社は水ぶくれも同然に大きくなった。が、しかし、その虚構の巨大組織の掟に忠誠を誓って身も心も会社に捧げ尽くした日本人たちは、果たして、人間として幸福だったのだろうか。
 会社は大きくなったが、その恐竜型組織に踏みつぶされてしまうような圧迫感にひたすら耐えてきた社員たちにとっては、TQCは「悪の管理学」であり、さらには「魔の経営法」であった、という思いが偽らざる実感であろう。
 産業史で見れば氷河期に入ろうとしているとすら思える現在の日本において、TQCとはなんだったのかと、戦後日本の虚構の巨大化で企業を幻惑した魔性の恐竜の正体を検証しておくことが、21世紀の日本の健全な発展のためにも必要であろう。
 そのデータは、これまで企業の経営中枢に封印されてついぞあかるみにさらされてこなかった戦後産業秘史である。ここに初めて、TQCを発生の原点からさかのぼり、解き明かしたい。

徳丸壮也著「日本的経営の興亡」(ダイヤモンド社)より引用

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