消えた「乗用車」
6月4日、いすゞ自動車の組織名称から「乗用車」の文字が消えた。すでに乗用車の国内向け生産を打ち切り、7月には米ゼネラル・モーターズ(GM)向けのラインも停止する。
以後、いすゞはトラック、バスの商用車とRV(レクリエーショナル・ビーグル)に特化して経営再建を進める。「赤字の元凶」といわれた乗用車部門だが、生産からの撤退は「くるまの名門」のプライドを傷つける。士気の低下ばかりでなく、乗用車の開発・生産から得られる技術的蓄積がなくなるといったマイナスも懸念された。乗用車生産にはそれほどの重みがあった。それを承知のうえで、あえて撤退を決断したのは関和平社長である。
関氏は56歳。経営陣が若いことで知られる本田技研工業の川本信彦社長よりも一つ年下で、筆頭株主であるGMのジャック・スミス社長兼最高経営責任者(CEO)に「GMは乗用車をいすゞ以外からも調達できるが、商用車の供給源はいすゞしかない。GMはどういう選択をするのか」と詰め寄って自らの提案を認めさせたタフネゴシエーターの一面を持つ。関氏を後任社長に指名した飛山一男会長が「若い人なら十年先まで真剣に考える」と語るように、関氏は長期的視点で会社を変えようとしている。
その関氏が飛山社長に撤退決定を報告したときの最初の言葉は「申しわけありません」だったという。企業の変革は先輩が築き、同僚が守ってきたものの破壊から始まる。関氏は部課長を中心に高コスト体質の改善などを考えさせる改革に次々と手をつけた。ミドルと対話
だが、トップダウンで既成の秩序を壊し、新しいビジョンや計画を打ち出すだけでは変革時代のリーダーは努まらない。社員一人一人が理解し、ついてこなければ、社長はただの旗降りに過ぎない。
「自分が泥をかぶれば戦略決定はできるが、新しい土俵で相撲をとるのは社員。人心が荒廃すれば会社は瓦解する」。昨年2月の社長就任直後、撤退の布石となるGM向け後継車の開発凍結を指示した関氏の懸念はこの一点にあった。幹部社員の気持ちを奮い立たせるには細心の注意を払いつつ、自ら裸になって社員の心に訴えかけるしかない。
新社長は全社員に配布した小冊子『いすゞの皆様へ』の中でこう言い切った。「いすゞは経営資源以上に戦線を広げ過ぎ、全社的に高コスト体質に陥っている。形式主義、机上論、セクショナリズムがはびこっている。私が風土改革の先頭に立ち、私自身がまず変わります」。
社長就任後の幹部社員との対話は3ヵ月で26回、正味60時間を超えた。現場の管理職は本社(東京・南大井)17階の役員応接室に招いて、終われば近くのカラオケに繰り出す。部長との対話は12階の会議室に社長が下りて行く。トップがミドルとの対話をいかに重視しているかを示す演出の一つである。
経営トップのリーダーシップでいすゞはどれだけ変わったか。将来の方向がはっきりしたうえ、輸出向けエンジンや部品の増産で工場はフル稼働に近く、社内は明るくなったという。じり貧を防ぐ
西武百貨店の和田繁明社長はこの四月、「不祥事(医療機器の架空取引)を起こす風土をつくった責任を取ってもらう」として、ほとんどの役員の降格人事を断行した。昨夏、西洋フードシステムズから10年ぶりで古巣の西武百貨店に戻った和田氏がまずしたことは、社内報『西武百貨店白書』で社員のモラルのたるみを徹底的に批判することだった。
実質的な創業者、堤清二前代表のもとで独特の企業文化の構築を試み、拡大路線をひた走ったセゾングループの中核企業には「堤氏の発言をどう解釈するかで右往左往し、気の聞いた企画書をつくることが出世の道という空気が蔓延していた」(ある幹部)。荒廃した風土の否定をはっきり示したのが堤氏の義理の弟、水野誠一氏の社内報での自己批判と社長から副社長への降格だった。
いすゞは再建の手がかりをつかみかけたところ。西武はやっと社内の動揺が収まった段階。改革の成否を評価するのは早過ぎるが、経営トップが優柔不断であったら、両社ともじり貧の道を歩んでいたことは間違いない。破壊と自己否定の試練をくぐり抜けて企業を変革するか、それとも先輩の顔を立てて既成の秩序に安住するか。不況、円高、国際競争の低下、そして政治の不安定化ーーあらゆる経営環境の変化が前者を選ぶようにと、企業のトップに進言しているように見える。(「企業」取材班)