企業塾は経営者と管理職のリーダーシップを測るリトマス試験紙
一橋大学商学部教授 伊丹敬之
肌と肌が触れ合う濃密な場では、リーダーのクオリティーは一目で分かる。企業塾は、言わば経営者と管理職のリーダーシップを測るリトマス試験紙と言えるだろう。
●吉田松陰になれる経営者はいるか
塾というと、二つのイメージがある。一つは決められたことを学ぶ場としての学習塾。もう一つは幕末に吉田松陰が開いた松下村塾。企業塾とは後者を指す。
つまり年長者を中心に濃密な関係のなかで、意見や精神的な交流が行われ、通常の教育や仕事では伝わらない何かが伝わる場としての塾である。考え方や思いなどが年長者から年下へ伝わることもあるだろうし、年下同士の間で伝わり合うこともあるだろう。現在の企業にはこうした松下村塾のような企業塾が求められている。
松下村塾では吉田松陰というたぐいまれな思想家がこれからの日本を憂えて、多くの人と思想を共有したいと考えた。その強烈な思いが人を引きつけ、塾生との短期間で濃密な精神交流が可能になった。これこそ企業塾の理想である。吉田松陰のような心意気とバックボーンを持った経営者がいないと、いくら企業塾をつくろうと画策しても、社員からシラケを買うだけだ。
かつて日本経済が高度成長をしていたとき、リード役を果たした企業には企業塾的なものが存在した。
それは意図的につくったというよりも、企業を成長させたいという思いが人一倍強い経営者が塾のような場を求めたのである。自分の思いを伝えたいという気持ちが強い人は伝える場をもちたくなる。デザインや計画をしなくても、ごく自然に松下村塾のような集まりが生まれていた。その結果として、組織全体の気持ちがまとまり、成長を促進したのである。
現在の大企業にも、もちろんそうした思いをもっている人はいるだろうが、残念ながら大半の企業では、そのような強い思いをもった人を経営者に選ばず、無難で器量の小さい人を後継者に据えるケースが多いようだ。
こうした経営者ほど企業塾で会社の中長期計画を策定させようなどと、せせこましいことを考えたがるものだが大きな勘違いである。そのようなことをすれば若手社員は決してついてこない。20〜30代の人はその上の世代より、見る目が厳しく覚めている。美しく空疎な言葉にはだまされないが、本当の精神交流があれば、必ず共感する。そういう意味では私は若手の世代を信じている。
問題は経営者である。「俺は違う」という経営者がいるなら、「果たして自分が社内の吉田松陰になれるのか」と自問自答してほしい。これこそ経営者の質を判断する最も厳しいリトマス試験紙かもしれない。塾長としての経営者は今までのようにごまかしは効かず、若手社員からすぐに正体を見破られてしまうからだ。●職場と仕事を超えた企業塾が必要
企業塾を開こうとするときに、気をつけなければならないことがいくつかある。
その一つは「創業の理念を思い出し、初心を伝えよう」という考え方である。こうした考えには若手はなかなかなじみにくいし、企業塾の本来の趣旨ではない。
現在、創業の理念がそれほど重要性をもっている会社は少ないのではないか。ただし少数の例外はある。
例えば松下電器産業などがそうだ。
同社にとって、創業の理念は彼らのバックボーンであり、自分たちの底にあるものだからである。時間軸を昔にさかのぼることと、自分たちを現在、支えている基礎を探ることとは大きな違いだ。
同社は「社会のために役立つ製品を作れば利益が上がる。利益が少ないのは社会から感謝されてない証拠だ」という理念をもっている。このように現在のバックボーンと創業理念が一致するなら、企業塾を支える共通認識となるが、多くの企業の経営者は松下ほど理念を信じていないだろう。
もう一つの禁じ手は特定の職制のなかで、塾をつくることである。つまり一つの部署そのものが企業塾となっても、上可と部下という権力関係がある限り、濃密な交流は実現しにくい。企業塾は職制を超えて、職場横断的な集まりでなければならない。普段の仕事の場と違う存在としての企業塾が重要だ。
もちろん特定の職制のなかでの塾的な場づくりは別の意味で必要である。
私は「場のマネジメント」という新しい経営のあり方を提唱しているが、「場」とは人々が参加し、意識・無意識のうちに相互に観察し、コミュニケーションを行い、相互に理解し、相互に働きかけ合い、共通の体験をする、情報的相互作用の容れものである。
こうした場を社内のあちこちにつくり、連携を図ることで企業全体をマネジメントし、活性化させることが「場のマネジメント」であるが、企業塾では場と違って塾の目的や目標をあまり明確にしない方いいだろう。また具体的なアウトプットを求めてもいけない。
実際には塾も場も人間が集まり、フェイストゥーフェイスで相互作用が起きるという共通点はあるが、企業塾は何かを伝え合うという心理的共振にのみ焦点を当てるべきだ。●社員を光らせる企業人本主義に返れ
それでは実際にどのようなプロセスで企業塾をつくるべきか。
基本的には二通りある。一つは経営者がトップダウンで塾を開く方法。
もう一つは社内に呼びかけて、管理職や若手のなかから自然発生するのを支援する方法である。
どちらでもいいが、企業塾としては会社がイニシアティブを取り、運営を支援するべきである。放任では企業塾とは言えない。
もし私が経営者なら、上級幹部に企業塾の意味を諄々と説いた後、塾長が務まりそうな幹部を5〜6人指名し、「お前の松下村塾をつくってみろ」と命じる。
塾長としてはポテンシャルと器量が大きく、現場から信じてもらえる人がベストだが、人選が思いつかないような経営者なら辞めた方がいい。
社員をよく知っている経営者は、すぐ思いつくはずだ。
同時に社内の若手社員にも呼びかけて、「塾をやりたい人は自発的に申し出てくれ」と訴える。こうして10グループぐらいの企業塾が生まれるはずだ。
そして参加者を募るときに強い自主性を求めるのも禁物だ。最初は嫌々でもいい、参加するようになって気づく人もいるだろう。なぜなら経験の浅い若い人たちは了見が狭く、自主性といっても彼ら自身の範囲内でしか判断できないからだ。
よく、自分の子供の自主性を重んじるといって、進学する中学校まで子供に選ばせる親がいるが、勘違いも甚だしい。子供たちにはよりよい判断を下すだけの材料も経験もないのである。必要に応じて親は子供に命じるべきだ。
上司が部下に対する時も同じ。ただ自主性に任せるのも駄目、すべて押しつけるのも駄目だ。
とはいえ、実際には塾長が務まるような年長者はなかなか見つからないかもしれない。確かにリーダーの素質を持っている管理職は年々、少なくなっているようにも思える。
だが、大きな会社なら、社内に人材が皆無というわけではないだろう。
本来、上級管理職の地位にあるべき人が、何らかの理由でその地位にいないだけかもしれない。
企業塾をきっかけに、本当に社員を引っ張っていける人はどんな人なのか、再検討してはどうだろうか。つまり人材の棚卸しだ。
肌と肌が触れ合うような濃密な場では、リーダーのクオリティーは一目で分かる。よく、「上司は三年経たないと部下の器量が分からないが、都下は三日で上司が分かる」と言うではないか。弱い立場の人に対する対応で、その人の正体が見えてくる。
言わば企業塾は経営者と管理職のリーダーシッブを測るリトマス試験紙である。社内には本来は光るべき珠なのに、光っていない人材がいるはずだ。
そうした人を光らせるのが経営者の役目である。
日本の企業のなかで、面白い人間が育ちにくいのは経営者と人事制度の責任だ。会社は株主のためにあるなどという世迷い言に惑わされずに、「会社は従業員のためにある」という“企業人本主義”に立ち返るためにも企業塾は重要な役割を担っている。いたみひろゆき1945年生まれ。一橋大学商学部卒業後、カーネギーメロン大学経営大学院博士課程修了。専攻は経営戦略論・経営組織論。著書にリ『マネジメント・コントロールの理論』(岩波書店)、『新・経営戦略の論理』(日本経済新聞社)、『人本主義企業一変わる経営、変わらぬ原理』(筑摩書房)など多数。近著に『場のマネジメント−経営の新パラダイム』(NTT出版)がある。
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