まず社長から意識改革を
『裸になったサラリーマン』という題名のミュージカルが全国各地で巡回公演され、評判になった。サラリーマンの哀感をテーマに、観客に泣き笑いの共感を呼び起こして人気のある劇団『ふるさときゃらばん』のミュージカル・シリーズの第三作目である。「あのストーリーのモデルはいすゞ自動車だ」という噂もある。それは一部だけなら当たっている。脚本をつくるうえで、取材にいすゞ自動車の社員が協力したからだ。
ミュージカルの中で『会社は人間のためにある』という歌が歌われる。その歌詞は、いすゞ自動車の人たちへの取材から着想されたという。
〈世の中を豊かにするために人は会社をつくった〉にはじまり、〈会社は時代とともにある。・・・・・会社は世の中のためにある。会社は人間のためにある〉と繰り返し歌われる。
実際に今、いすゞ自動車は、この『会社は人間のためにある』という歌のとおりの会社像を目指して、生まれ変わろうとしている。
〈いすゞは必ず良い会社に生まれ変われる。私がこう考えるに至った具体的理由は、第一には、いすゞの中に少しずつ変化が生まれてきていること。とくに、問題意識を持った多くの人々が具体的な行動を起こし始めてくれていること。この動きは着実に輪を広げてきており、この変化への行動が全社的にもっと浸透すれば、いすゞの体質は変わっていくものと考えられる〉
これは、関和平社長が『部長との対話から』の中で語っていることである。関社長は、さらに次のように重ねて「変化」を部長たちに説いている。
〈これからのお客様の期待に応えられる商品を生み出せれば、3、4年先にはいすゞは完全な健康体になれるだろう。そのためには、再建期間中に、私を含めた役員、幹部社員の意識を変えて、過去の風土や仕事の仕方の悪いところは思いきって直し、スリムな、強靭な体質に変えることが大前提である〉
〈いすゞが生まれ変わるためには、役員、部長の意識改革を早く進めなければならないと思う。組織の長の重要な仕事の一つは『部下の意識を変える』ことだ。そして、都下の意識を変えるためには“長”自身が変わり続けなければならない〉
関氏が社長に就任した92年2月の時点で、いすゞは484億円の赤字を計上するという経営不振に陥っていた。再建策として、関社長は乗用車から撤退し、商用車に製品を特化するという思いきった転換を打ち出した。そして、『いすゞの皆様へ』と題する社員へのメッセージを小冊子にまとめて配布した。
その中で、関社長は〈いすゞは全社的に異常な高コスト体質に陥っているのではないか。形式主義、机上論、セクショナリズムがはびこり、全社的に活性に乏しく、持てる力が発揮されていないのではないか。これはつまるところ、経営風土・企業体質の問題に尽きる〉と指摘して、こう表明した。〈私が風土改革の先頭に立ち、私自身がまず変わります〉
以来、関社長は役員会譲を経営政策会議に改めて討論の場とし、そして、部長、中堅社員、社員との対話集会を繰り返してきた。
経営構造の改革と同時に「風土改革」という企業体質の改善に、身をもって取り組んでいく決意を実行していったのである。それを前進させるには、同時にもう一つ、社員の意識改革をも起こしていかなければならないだろう。
そのうえで関社長には心強いサポーターが現れたというか、風土改革を推進するエンジンにも相当する機関が生まれた。それは、『100人委員会』という名称の社員たちによる改革運動である。
名称は『100人委員会』となっているが、いすゞの社員の中から100名が集まり構成された・・・というわけではない。「100人」とは「多数の人」という意味で、メンバーは限定も固定もされておらず、若手社員から役員まで職制を超えて誰でも参加し、自由に出入りできる。いわば、アメーバ状の組織である。
その組織自体、役員会によって認知され、活動予算も支給され、委員長には松香宏道副社長が就任していることになっている。しかし、実体としては事務局が設置されているわけではなく、運営は社員たちの自主的な活動に任されている。つまり、任意団体である。
したがって、社内のどの部門で、社員の誰が『100人委員会』を旗上げしようと、自由。
だから、いすゞ自動車には今、『川崎工場100人委員会』『栃木工場100人委員会』『小型開発100人委員会』『生産技術100人委員会』『取締役・担当補佐100人委員会』『商品企画100人委員会』と、部門・職場ごとに数々の100人委員会』が生まれ、増え続けている。
それらのグループが各職場で個々に、また横の連絡をとって協調しながら、社員たちが自主的に風土改革を進めていっているのである。社員によるボトムアップの風土改革
いすゞ自動車に100人委員会が発足したのは、92年11月のことだった。その時すでに関和平社長によって風土改革が提唱され、部長や社員との対話集会も展開されていた。
しかし、100人委員会は決して社長の意を受けたトップダウンによって推進されていったのではない。正確には、今の100人委員会の“種”となる前段階があった。その社員の活動が関社長に理解され、中長期経営政策に風土改革が課題として取り上げられることにより、その一粒の種が芽を吹く支援体制がとられたのである。すなわち、100人委員会は経営者主導ではなく、経営者支援による社員主導というボトムアップの活功で燎原の火のように全社へ広がっていったといえよう。
「最初は、部長だけで100人委員会をつくろうと考えた。社内で発言権を持っているのは部長だったから。そこで、趣旨を手紙にしたため、約130名いる部長の全員に出し、参加を呼びかけた。ところが、参加の返答があったのは17名。何度か会議を開いたが、それぞれ職場が違えば風土改革に対する考え方も違い、意見はバラバラ、つい昔話になってしまい、何もまとまらなかった」と、管理部門担当役員付部長兼国内営業部門担当役員付部長という肩書を持つ北村三郎氏が発足当時を振り返る。
「部長たちで100人委員会を開いているうち、藤沢工場の係長クラスが聞きつけ、「風土改革を議論するなら、私たちも参加させてくれ」と言ってきたので、彼ら4名も加えて研修所に泊り込みでやることにした。すると、彼ら若手が部長たちに対して『固定観念に染まっている』『古臭い』『現場を知らない』と厳しいことを言い、議論は盛り上がった。
そこでメンバーを横並びでまとめるより、若手を活性剤にして、地位や世代をミックスしたほうが、運動に勢いがつく・・・と気づき、100人委員会のやり方を転換することにした。そして、門戸を開き、自由参加にしたところ、若手が一度に50名もつめかけてきて、部長たちは『若手に乗っ取られた』と、出てこなくなった」こうして、100人委員会は若手が主体となり、社内ピラミッド組織の裾野に一気に広がり、それぞれの職場に飛び火していったのである。
その各職場ごとの100人委員会は事務局など形式ばったものは設置されていないが、かわりに世話人が数名ずついて、彼らによって運営されている。世話人は、任命されたのでも選ばれたのでもなく、自ら買って出て、職制に関わりなく、風土改革に取り組もうという強い意思を持った人たちである。
北村三郎氏も世話人の一人だが、彼の場合は最初の呼びかけ人でもあって、つまり、彼こそが100人委員会の種をまいた人……と言ってもいいだろう。
関和平氏が社長に就任する以前、副社長だったとき、北村氏は、子会社のいすゞ能力開発センターへ社長として出向していた。そこでは、社員研修が主な業務だったが、社内報「いすゞ新聞」の制作も受けていた。その誌面を丸ごと使い、『ホンネ座談会』と題する特集を連続して組んだ。これが社内に大変な反響を呼び起こした。
というのも、前社長を社員たちが囲み、それぞれの職場の実態を「いすゞの企業風土はこれでいいのか」とばかりに歯に衣着せぬ勢いで暴露していたからである。この社内報が社員たちに風土改革を考えさせる火付け役となった。そして北村氏は、まず数名の社員たちと風土改革をテーマにした勉強会を開いた。これが、100人委員会の種となったのである。
子会社という檻の外に出た自由の身となったから、親会社に向かって思いきった発言もできたのだろう。が、決して外に出た鬱憤を晴らそうとしてやったことではない。北村氏が風土改革に取り組もうと決意したのは、それ以前に本社のIJS推進室長というポストに就いた時だった。その時、個人的なことで面白い体験をした。
「ちょうど会社がリフレッシュ休暇制度を実施することになり、まっ先に手を挙げて2週間の休みをもらった。その間、『旧友を訪ねる旅』をやり、学生時代の友人たちと30年ぶりの再会をして歩いた。様々な人生を歩む友人たちと話し、自分の人生も見つめ直すことができた」
北村氏は昭和36に入社し、本社人事課を振り出しにIJS推進室長になるまでに、藤沢工場労務課、全国自動車労連中央執行委員、いすゞ労組教育部長、販売部、販売子会社課長、本社人事部教育厚生課係長、同住宅課長、同教育厚生課長、同能力開発課長、そして販売へ戻り、太平洋アフリカ部次長、北米第二部長、海外部品部長と渡り歩き、どっぷりと仕事漬けの「会社人間」で徹してきた。
それが、『旧友を訪ねる旅』によって、「このまま会社人間でいいのか」と反省し、同時に、事務の合理化を任務にするIJS推進室長になったことから、「いすゞの企業風土はこのままでいいのか」という思いにも強くかられていったのである。副作用の少ない大企業病克服法を
なぜ、いすゞ自動車は元気のない会社に陥っていたのか。北村氏の目には「重い大企業病に罹っている」と映っていた。その原因も明らかだった。
「ある時、研修センターへ行ったところ、工場の部長職たちが集まり、暗い部屋でビデオに見入っていた。TQCのデミング賞予備診断の受験勉強だった。部長の一人が『デ賞受診が最優先になってしまったために本来の仕事が遅れたり、品質上のトラブルが増えているんだ』とこぼした。
仕事をそっちのけでTQCとはおかしなことだが、本社でも、資料をファイルから30秒以内に取り出す訓練をしたり、TQCの資料をつくるために時間をつぶしたり、意味のないことで社員は忙しくしていた。会社はこんなことでいいのだろうかと思った。が、誰もおかしいことをおかしいと口に出して言おうとしない。その集団主義の恐ろしさを感じた」 いすゞ自動車は、84年にTQC(全社的品質管理)活動を開始。続いて85年にIPS(工場改善)活動を開始、86年にはIJS(事務合理化)活動を開始。そして89年にはTQCのデミング賞への挑戦を宣言。しかし、90年にデ賞の受診を一年延期し、91年にはついにデ賞を断念するという事態に追い込まれた。
北村氏がIJS推進室長だったのが89年、いすゞ能力開発センター社長だったのが90年から91年にかけてで、彼が風土改革ののろしを上げることによってTQCにストップがかかったのである。
TQCという経営手法も企業体質を改善するための処方であるはずだが、皮肉なことに、いすゞ自動車の場合は、大企業病を治すためにまずTQCを清算しなければならなかった。これは何を物語っているか。次のようなことが言えるだろう。
大企業病とは、創業50年以上、社員数1万人以上という組織の硬直化と肥大化に悩む企業が、構造的不況に遭遇すれば必然的に発病する症状で、いすゞ自動車も例外ではなかった。だが、その大企業病を克服するのにTQCがどの企業の症状にも効果的とは限らず、いすゞ自動車にとっては逆に病状を悪化させる結果になってしまった。すなわち、TQCは大企業病の直接の原因ではないが、その処方箋を誤ると、大企業病を促進する副作用の強いクスリである。
なぜTQCには副作用があるのか。それは、トップダウンの管理によって強制的に社員に押し付けられる体質改善であるからだ。では、副作用の少ない大企業病の克服法とは何か、100人委員会の活動は、その新しい療法を開発するところから始まった。上からの強制的で管理型のTQCに対して、社員の自主的な創造型の風土改革という方向へ、この時点でいすゞ自動車は再出発していったのである。大企業病の症状と原因を追求
100人委員会は、いすゞ自動車の体質改革に取り組んでいくうえで、まず第一段階として、同社に現れている大企業病の症状を追及していった。その結果、次の三つの合併症であることが判明した。
(1)行き過ぎた「部分最適」病
組繊というものは、まず自分の部門をよくすることに一所懸命になり、その部門の立場を守ろうとするが、いすゞ自動車はこの「部門最適」が行き過ぎて「全体最適」への機能が働かず、「行き過ぎた部分最適、全体不適」という状況になってしまった。そのため、それぞれの部門では決まった任務をきちんとこなそうと努力しているのだが、会社全体では膨大なロス・コストを生み出し、利益の出ない経営体質になった。
(2)つじつま合わせ病
いすゞでは、上層部が部下に対していちばん期待した能力とは、実は、仕事のつじつまを合わせる能力だった。「つじつまを合わせる」とは、つきつめれば計画や報告に嘘をまじえるということ。その能力が身に付くのと正比例して、本当に社員に一番必要とされる仕事能力である創造性は失われていく。
(3)やらせ・やらされ病
会社組織はもともと「やらせる立場の人」と「やらされる立場の人」との関係で成り立っているものだが、特にいすゞでは、業績を上げるために経営者は強力な「やらせる立場の人」を起用し、社員を徹底して「やらされる立場の人」へと追い込んでいた。
たとえばTQCの指導会で、やらされる立場の社員が経営トップや外部の権威ある先生方に取り囲まれたものものしい雰囲気の中で発表させられた。
この「やらせる」と「やらされる」という立場の二極構造が、たとえば本社と工場、事務所と現場、スタッフとラインの関係に根深くはびこり、大企業病の最も深刻な症状を呈していた。
次に100人委員会では、それらの症状を引き起こした原因を突きとめていった。その結果、つまるところ、「人と情報」の問題に原因があると考えられた。
人とは・・・経営者が社員をどう見ているかという人間観である。
組織管理のマネジメントには二通りある。社員は信頼できないということを前提にするマネジメントと、社員も仕事を向上させたいと願っているから信頼していきたいというマネジメント。どちらのタイプのリーダーに部下はついていくか、また、どちらのリーダーの職場集団がいい業績をあげられるかは明らかであろう。
情報とは・・・会社組織を人間の身体にたとえると、その組織を元気に保つ血流のことである。
情報が仕事の判断の拠り所になる。が、その流れには、上から下への動脈と下から上への静脈とがある。両方の流れが毛細血管の組織末端まで巡ってこそ健康体といえるが、どちらか一方でも流れが悪くなると、たちまち組織は沈滞し、とくに静脈が詰まれば経営者は裸の王様と化し、経営は破綻する。
組織が健康であるには、上と下とで情報を共有することが必須条件である。情報を上に集中させ、命令という情報のシャワーで部下を動かすというマネジメントはもはや古典的な経営である。高度情報化社会の今日では、憤穀の共有化によって社員が自主的な判折で動くというマネジメントのほうが、職場は活性化し、業績は上がる。
病気は、原因がわかれば治し方もつかめる。100人委員会では次のような体質改革の目標を立てた。
〈社会の環境の変化にすばやく対応できる体質にする。そのためには、社員の情報体質を変える〉
そして、次のような体質改革の基本的方針を立てた。1、部分展開でやる
2、やりたい人が改革をやる
3、社員が共有している価値観を変える
4、改革推進室を置かない
この体質改革の目標と基本方針がすなわち100人委員会にとっての大企業病の治し方であった。長期局地戦による土壌改良
体質改革の基本的方針のうち、〈改革推進室を置かない〉とは、先に述べたように世話人によるボトムアップ展開を狙ったものである。その前提として、〈やりたい人が改革をやる〉という方針が立てられたが、それには、北村世話人が〈2・6・2の法則〉と呼ぶ組織の論理が考え方の背景としてあった。
「すべての組織には〈2・6・2の法則〉が成り立つ」と北村氏は次のように説明する。「例えば、会社を改革しようとする場合、社員の20%は改革に参画し、大きな流れをつくる人たちだが、60%は、その大きな流れについていく普通の社員たちで、残る20%は、お荷物になる人たち・・・というふうに分かれる。したがって、企業の改革運動は『全社一斉』など最初から無理なこと」
世話人制度もこの組織の原則から考え出され、そして、100人委員会の活動としては、〈2・6・2〉の上の20%のネットワーキングにターゲットが絞られた。
そのネットワーキングの進め方も、「全社一斉」を否定したから、必然的に〈部分展開でやる〉という方針になった。
100人委員会は社内各部門で相次いで生まれたため、たちまちにして全社に広がったかに見えるが、実は戦術的なプロセスを踏み、設立されていった。
まず、開発部門で90年5月にスタート。次に生産部門で91年3月にスタート。そして国内営業部門で94年5月にスタートーと、このように局地戦的に100人委員会活動は展開されていったのである。
「部分から少しずつ変わり、全体へ変化がじわじわと及んでいく」という局地戦の戦術をとった狙いを北村氏は次のように打ち明ける。「体質改革を部分から全体へと段々に進めていった場合、その進行速度の違いによって、各部門ごとに改革に取り組む熱意の温度差が生じる。会社組織を輪切りにすると、ピンクから赤へ色がまだら模様になって表わされるように、その温度差があるから、各部門は刺激され、100人委員会は活発化し、活動が長期的に継続されていく」
会社の体質は急に変われない。継続は力なりーという格言が、100人委員会によるいすゞの風土改革にも当てはまったのである。
局地戦でかつ長期戦の治療法は、またその薬となるものもたった一つではなく、漢方薬を調合するように、いろいろな100人委員会活動を複合的に組み合わせ、展開されていった。
1 社長対話・・・冒頭で述べたように、関和平社長が社員との対話を繰り返したが、そのやり方は、工場などの現場へ社長の方から足を運び、会議室や休憩室で自販機のコーヒーを飲みながら膝を交えてというくつろいだ雰囲気で、95年3月時点までに55回にも達した。
2 ミニコミ誌の発行・・・社長対話を文章化して『社長メッセージ』にまとめ、あるいは、100人委員会の活動状況を月刊で報告書にし、配布。
3 オフサイトミーティング・・・部署や立場を越えて、合宿体制で議論し、そこで得た情報を職場に持ち帰り、伝播。この活動から世話人が生まれ、「2・6・2の原則」の60%が上部20%へとステップアップしていった。
4 企業間交流・・・社外の異業種企業との交流も積極的にやり、風土改革のための情報創造を他社と共有していった。例えば、社内企業ともいえる独立法人を数多く設立して、独特な複合経営体を構築して話題になったコンプレッサメーカーの前川製作所と合同の勉強会を開いてきた。
このように、治療方法も100人委員会で独自に開発していった。企業の風土改革とは土壌改良である。それは、肥料や農薬を施せば治るものではない。北村世話人たちは10カ年計画を覚悟して後に続く世話人の育成に力を注ぐ。(とくまるそうや)