編集長インタビュー 清水博教授(金沢工業大学場の研究所所長)
聞き手 週刊ダイヤモンド 編集長 坪井賢一氏自己中心的「拡大の時代」から「共創」型経済・社会への転換を
■清水さんは、今後は場所文明、競争型から「共創」の時代になると提言していますね。しかし経済界では逆に激しいグローバル競争が起きていますし、日本の経営者もそうしないと生き残れないと考えています。
■清水 人間とは、肉体的に見れば単一存在です。だから、自分中心的にモノを見るし、人と競争する。これは人間の一面として否定できませんが、もう一つ、人間は精神的に共存在、他人といっしょに生きていく構造を持っている。そこに社会性が生まれてくる。「衣食足りて礼節を知る」とは、肉体的な要求がすんだら次は精神的な要求だという意味です。単一存在的に生きるとは、死ねば自分は消滅するということ。一方、共存在的に生きるとは、みんなで一つの大きい生命をつくることですから、自分が肉体的に消滅しても大きい生命のなかで生きていることになる。そこに人生の意義があったのです。ところが、医療の進歩などにより、死ぬことを考えなくなった。物質至上主義的な面が色濃くなり、人間が肉体的要求を拡張していくことを覚えて自分中心的になった。今日的なことにすべてをかけ、未来を考えない文化になってきたために、単一存在的なことさえできればいいと錯覚してしまった。そこに矛盾が起きているのです。■日本人も、自分を単一存在的にしか考えられなくなってきた?
■清水 経済のグローバリズムは単一存在の理論を極端に拡大していく。しかし、この拡大を阻む二つの壁があります。一つは地球環境。このまま人間が欲望を拡大していった場合、どうなるか。もし共存在的な観点に立つなら、もう生きていけない状況が見えている。もう一つは、心の問題です。自分を単一存在的なものだと誤解することから、痛みのわからない人が増えている。この状態で、子供の教育を行ない、未来が築けるのだろうかと。今の経済のグローバル化は、こうした問題を見ないようにして起こっている。私は、経済のグローバリズムを否定はしません。しかし一方で、明日への準備をしておかないと次世代への責任を持てないと思う。
明在的部分の通信から暗在的な精神の伝達へ
■二つの壁が、グローバルな競争社会を阻む。では、次はどんな時代になると予想していますか。
■清水 創造の世紀だと思います。創造は、共存在的な意識から生まれます。創造とは、社会が認めてくれることであって、単に変わったことをやる、単一存在として目立つことは違う。どうしたら役立つか、そこに創造への使命感が生まれるのですが、日本は世界に向けた創造的発信をしていくかたちができていない。■日本が創造を発信する仕組みをどう構想していますか。
■清水 これからは多様性の時代です。多様性とは「自分の文化性のうえに立って、何かに寄与していく」こと。国家間のバリアははずれていくが、一つの文化の起点としての国は残る。今までは西洋に向いてキャッチアップしてきましたが、今後は日本文化のうえに立った、開かれたかたちの新しい創造をしなければいけない。日本は「場の文化」をつくった歴史があり、今それが国際的にも評価されている。西洋文化は明在的ですが、より人間の暗在的な部分や東洋的な考えを取り入れたものとして、西田幾多郎の哲学と仏教が注目されています。そうした東洋の知に西洋の知をどう混ぜ、どう創造していくか。これこそ、日本の問題です。■東西の思想的融合のうえでの創造とは具体的にどういうものですか。
■清水 まず、コミュニケーションが変化する。今までのコミュニケーションは明在的な部分だけの通信でしたが、それが人の心をどうやって伝えるかといったコミュニケーションに変わってくる。もう一つは、リサイクル的な市場をつくり、それに合うモノをつくっていくことです。人間の体は、理屈抜きに動いてしまう面がある。会えば相手が何を考えているかわかるなど、まだ未知の深いものがある。今後は精神の対象になるようなものが出ていくといい。たとえば寝たきりの人に生きがいを与えサポートするような技術、ここに場の文化の新しい展開があるはずで、マーケットは大きい。企業経営もこうした方向に変わっていく。■それがインターネットだと言われています。
■清水 少しは役立つでしょう。しかし、インターネットは恣意的に操作できるし、同時性がない。やはり、何かシナリオをつくろうとするときは一つの場所に集まらないと。■インターネットは、文字どおり仮想の場です。
■清水 それではダメ。インターネットには身体が伴いませんから、身体がだまされない。大事なことは身体性とともにあるということです。「場と共創」の著者の一人、早稲田大学の三輪敬之先生たちがやろうとしているのは、そこに身体を入れる技術です。たとえば、ロボットは身体を使うコミュニケーションのメディアになるといった新しい発想をしています。こうした発想は、日本人が非常に得意とするところです。「新幹線」型社会に新しい創造は生まれない
■日本企業は会議を減らし、電子メールで同じ情報を共有し、効率化しようという方向にあります。
■清水 私の言葉では、それを「新幹線」と言うのです。新幹線は大事ですが、それだけで国を支えるのはちょっと苦しい。効率は上がるが創造はできない。たとえば、高齢者が働き、生きがいを見出せる社会構造をつくれば、新幹線の負担が減る。サラリーマンのあいだは大競争でもいいが、定年後も生きるのが人生ですから、複線化を考えないと。新幹線に対するローカル線、そしてローカル駅のネットワークが重要だと思います。
■ローカル駅とは?
■清水 ローカル駅とは、開かれた駅という意味です。入りたい人は入り、出たい人は出ていける、それがローカル・ステーションです。こうした駅をつくり、それらをつないだときには、リサイクル社会の構造をとってないといけない。たとえば、場の研究所と三輪先生の研究室という遠隔地間で同じような手作業ができないかと。仮想空間のなかで両方が同じモノをつくる試みをしています。これは身体性を広げ、体が不自由な人にも参加できるものを考えていくことにもなる。今の日本は、肉体と精神の二つを混同している。個人を超える生命という観点がない。欧米にはありますよ、こういう考え。だから、インターネットの持つ意味が、欧米と日本では違うんです。■90年代以前は、日本経済の成長を支えていた日本的なもの、企業と個人の関係で言えば長期的に安定した場がありました。それが機能しなくなり、競争原理を導入して効率化を図るようになった。そうしないと世界の競争で負けてしまう、一般的にはそう理解されています。
■清水その理解は平板です。私が研究している「場」には、大きく分けて二種類あります。一つは、「長いものに巻かれろ」というときの長いもの。会社に入って巻かれていれば、それなりに安定しているが、それと闘おうとしたら、飛び出さなきゃいけない。この静的な場は、秩序という構造を保とうとする場、受益者がつくる場です。もう一つは、ものを「創造する場」、活動の舞台になる場です。この場で「突出」が生まれる。私は、これをサッカーに例えています。サッカーは、全体としての働きをする。巻かれる場では負けてしまうが、創造の場では各人が一つの目的意識を持った動きをする。そのときの自分は単一存在ではなく共存在で、他のメンバーを頭に置いて動く。これを突出と言うのです。日本における場の文化ができたころは、突出の場だった。その一つが茶室です。人間は、自分が死ぬ存在であることを自覚してはじめて自己否定が始まる。そこから、人生はいかにあるべきかを考えるようになる。これは、日常性から離れるということです。日常的空間から離れて茶室へ入った共存在的な人間は、社会的な身分やカネなどどうでもよくなる。死を前にした自分にあるのは、生きるか死ぬかだけ。そこでは人間はみんな平等になる。共存在的になるとはそういうことです。場が大事だと言っているのは、そうした舞台がなければ動きようがないからなんです。■長いものに巻かれてきた場を、なんとか変えなければいけない。そうしないとグローバル競争に負けるので、今は能力給制度を導入し、突出した者には高い賃金を払う方向へ移行しつつあります。
■清水 確かに、そういう面も「新幹線」に乗れば必要になってくる。ただ、それは大きい問題を突破するかたちではない。もう一つの場、自分の意思で参加できる開かれた舞台をつくっておかないといけない。いずれは日本企業も、複線化していく以外にないと思います。(週刊ダイヤモンド2000.7.22)