一つの試算がある。「量の拡大が見込めなくなった日本で企業が年率三%の成長を維持するには、人を毎年三%減らして生産性を上げるしかない。就業人口の三%に相当する二百万人の削減が十年続けば、その間に既存産業から二千万人があふれ出る」(中前忠・中前国際経済研究所代表取締役)
雇用は切らすに
生産性向上の手段は人減らしだけではない。しかし産業界が構造転換で新たな成長の手立てを見つけられなけれは、その先に待つのは大矢業時代、という警鐘だ。
「グッバイ・ジェミニ」。
九三年六月、いすゞ自動車が創業事業の乗用車生産から撤退した時、藤沢工場のプレス機が最後に打抜いたドアパネルに、現場の社員たちは万感の思いで寄せ書きをした。それから五年。いすゞの従業員数は一万三千七百七十人。撤退前より数百人増えている。いすゞは雇用の血を流すことなく、乗用車撤退という、前例のない大手術をやってのけた。
「いまだから言うが」と関和平社長は舞台裏を明かす。
まだ会社の方針が「乗用車存続」だった九一年、生産担当副社長だった関氏は、存続派の社長の了解なしに設備発注の七割を止めた。計画通り全額の三百億円を発注していたら引くに引けない泥沼に陥るところだった。「撤退が今ごろろまで遅れたら、千億円の赤字を抱えていすじばつぶれていた」(関社長)
雇用を守りながらの撤退もまた、壮大な挑戦だった。いすゞの開発部隊三千人のうち、乗用車・ガソリンエンジンの開発要員は約千人。社内失業したこの千人を商用車・ディーゼルの開発部門と生産技術部門に振り分けた。
同じエンジンでもディーゼルとガソリンは全く別の技術だ。九五年にガソリンからディーゼルのエンジン設計に配属された柿原知明指導職は「学生さながらに専門書を買い込み、死に物狂いで勉強した」と言う。いすゞの技術者たちは、二、三年で異文化に順応した。
二月末に投入した新開発のディーゼルエンジンには、ガソリンの技術がちりばめられている。
いすゞの大株主である米ゼネラル・モータース(GM)はこのエンジンを九九年から米欧で採用する。いすゞは一九三七年の創業から六十三年目にして、世界最大のディーゼルエンジンメーカーに生まれ変わる。