名門・いすゞを変えた「100人委員会」の挑戦

……企業風土を改革した男たち……

(上司と部下が喧喧諤諤の大議論)

3月のある金曜日の午後、いすゞ自動車(以下、いすゞ)藤沢工場近くの同社研修所で、ひとつの会合がスタートした。その名称は、「100人委員会」といった。
きっちり100人のメンバーで構成されていたわけではない。その日に集まったのも、せいぜい30人くらいのものだった。
ただし、彼らには共通項があった。全員が藤沢工場で働く、いすゞの社員だということである。藤沢工場には総勢6000人からの社員が働いている。かろうじて顔ぐらいは知っていても、全員が親しいわけではない。
その日、「100人委員会」に出席したメンバーにも、同じことがいえた。工場は同じでも職場はバラバラ、当然、なかには親しく語り合ったことのない組み合わせも多かった。
そんな彼らが、なぜ一堂に会したのか。彼らを集めたのは、オフィシャルに張り出された一枚のビラだった。
「いすゞが高コスト体質になってしまった本当の問題点はどこにあるのか。みんなで、本気で話してみませんか」
そんな趣旨の文面が、そのビラからは読みとれた。さらに会への出入りは自由、入社年度も問わないと付け加えてもあった。入社1年目の社員でも、会社の高コスト体質についてひと言いいたければ参加していいというわけだ。
新入社員でも、会社や上司にひと言もふた言もいいたいはずだ。これが中堅の社員ともなれば、いいたいことは三言や四言どころではないだろう。でなければ、あんなにも夜の飲み屋街が賑わうはずもない。
しかし、それを正面からいうとなると話は違う。いくら上から「本音で話そう」といわれても、ホイホイ出ていけるものではない。いいたい放題いった結果が、昇進の妨げにでもなったら大変だ。
「ビラ一枚で、社員の不満を聞いてくれるほどに会社が変わったと信じろ、といっても無理でしょう。集まった人たちは恐る恐るか、面白半分という気持ちだったんじゃないですか。なにしろ、集めた当人たちですら、会の趣旨を本当には理解してなかったんですから」といって笑ったのは、片山正則。当時、彼は藤沢工場の技術開発部課長のポストにあった。そして、この「100人委員会」一回目に関しては、親しい人間に声をかけました。そんなわけで、だいたい誰が来るかまで読めてましたね」
世話人は、片山のほかにもふたりいた。そのそれぞれが、親しい人物に声をかけて集めたのだ。
そうして集まった30人の内訳は、半分が部長クラス、残りが課長と主事(係長クラス)だった。入社年度は問わないとはいわれても、やはり若手社員には敷居が高く感じられたのかもしれない。
「その30人を5人くらいのグループに分けて、金曜日はグループのなかで議論します。そして翌日、グループごとのまとめを発表しあって、さらに議論するといったかたちで会を進めていきました」と、片山。そこでは、“上司が成功体験を押しつけすぎる”“本来の業務とは関係のない、ただ時間を費やすだけの仕事が多いのではないか”といった意見で喧喧諤諤となった。
もちろん、抽象論などではない。自分たちの仕事現場の具体的な問題が議論されるのだから、元凶の部署や具体的な個人の顔までが、議論している当人たちの頭には浮かんでくる。一歩間違えば、他部署への誹謗、特定の個人への欠席裁判にさえなりかねない。または、課長や主事による部長の吊し上げの場と化す可能性すらある。
「でも、そうはならない。いない人を責めても仕方ありませんし、議論しているうちに自分自身の悪さもわかってくるんです。そして、つきつめていくと会社の風土に問題があるとわかってくる。あたりまえの結論のようですが、身近な具体的な問題から掘り下げていったときの重みは違うんですね」(片山)
実は、それこそが「100人委員会」の本当の狙いだったのである。

〈あちこちの現場に飛び火した「100人委員会」〉

 91年10月期決算で、いすゞは経常段階で480億円の大幅な赤字を出し、無配に転落した。そして92年12月、乗用車から撤退して商用車とRV(レクリエーショナル・ビークル)、そしてディーゼルエンジン供給の三分野に特化する、思い切った施策を発表した。そうしたなかで、大幅な赤字を生んだ風土そのものの改革も模索されており、「100人委員会」もその一環として位置づけられていたのだ。
風土改革を目指すいすゞの「100人委員会」は、藤沢工場だけのものではなかった。川崎工場や栃木工場といった生産現場、小型トラック開発にあたる開発現場など、あらゆるステージで開かれている。なかには、「取締役・担当補佐100人委員会」といったものまである。まさに、全社的に取り組まれている風土改革なのだ。
記念すべき第一回目の会合、「100人委員会」のルーツとでもいうべき会合が開かれたのは、92年11月のこと。企画部長と人事部長の連名で呼びかけられた第一回の会合は、参加対象を部長クラスに限定し、全125人の部長のうち17人が参加した。
この集まりが部長クラスの会合のままであれば、「100人委員会」が藤沢工場のよつな現場レベルにまで飛び火することもなかっただろう。また、全社的な風土改革を目指すものになったかどうかも、疑問といわざるをえない。
そうならなかったのは、部長クラスの会合であったにもかかわらず、その場に中堅社員が“乗り込んだ”からである。
「仲間の主事が、部長の代理として委員会に出席したんです。そしたらそのあとで、『あれじゃダメだから、若手が参入しよう』とぼくらを誘いにきたんです」というのは、手塚利男。当時の彼は、川崎工場で生産効率化を進める仕事をしており、肩書きは主事だった。
「僕らから見れば、部長たちのセクショナリズムが赤字に結びついたと思える部分が結構あるんですね。にもかかわらず、それを委員会の場で議論しようとしない。だから、若手が乗り込んでいって、その議論をやろうという提案だったんです」
これを受けて、手塚を含めた四人の中堅社員が部長クラスだったはずの100人委員会に乗り込み、議論を吹っかけていったのである。
12月の11、12日の1泊2日、大田区雪谷にある研修施設を借りて開かれた「100人委員会」は、熱気と緊張感に包まれていた。外は、東京には珍しい雪だった。
「あるクルマのモデルチェンジを具体的にあげ、『どこどこの技術部長が判断して、ストップすべきところをやらなかったために失敗した』というようなことをやるわけです。具体的な名前をあげながら」と、手塚。部長たちにしてみれば、触れられたくない部分を部下に露骨に指摘されるわけだ。吊し上げといっても、当たらずといえども遠からずの状況だった。上司と部下という会社内での序列からいえば、異常な事態だったともいえる。「僕らにも、ちょっと気負いもありましたからね」といって、手塚は笑った。これで部長たちがへソを曲げてしまっていれば、「100人委員会」は頓挫していたはずだ。
しかし、部長たちはへソを曲げなかった。部長たちを正面から批判した手塚たちは、嫌がらせを受けることも、左遷させられるようなこともなかった。
「もっと若手と議論したい、と何人かの部長に直接いわれましたよ」と手塚は振り返る。上司としてのプライドを保つために鷹揚な態度を見せただけではなかった。その証拠には、その雪の日の「100人委員会」に参加した部長たちも中心になって、各部署での「100人委員会」が開かれるようになったからだ。
藤沢工場の「100人委員会」も、そのひとつだったのだ。片山正則が世話人をやるようになったのも、彼の上司である部長が、その雪の日の「100人委員会」に参加していたからである。積極的に若手の意見に耳を貸し、議論する必要性を感じ、自分の職場での「100人委員会」の開催を指示したというわけだ。
そうした姿勢を部長が見せること自体が、画期的なことといえた。いすゞの風土は、確かに変革に向かって歩みはじめたのである。

〈デミング賞受賞挑戦をやめさせたたったひとりの反乱〉

 そもそも「100人委員会」が、どんな経緯で誕生したのか。それを知るためには、ひとりの男に注目しなくてはならないだろう。
「管理部門担当役員付部長 兼 国内営業部門担当役員付部長」という長ったらしい肩書きを持つ北村三郎、彼こそが、「100人委員会」誕生のきっかけをつくった人物なのだ。いまから20年以上も前、北村は能力開発課長のポストにあった。新入社員を教育し、企業で通用する人間に育てるのが彼の役目だった。
「しかし、新入社員に教えることが空しく感じられるようになったんです」北村はその理由を、次のように続けた。
「上司が会議で使う資料づくりに追われ、会議でも上司への反論は許されない。当時のいすゞはそんな会社でした。お客様のためとか、会社をよくするためといったことができず、余計な仕事ばかりが多すぎる会社だったんですよ。意気に燃えて入社してきた人たちを教育して送り込んでも、そんな職場では育ててもらえないという気持ちが強かった。すごく不安でしたね」
そうした状態を打破するには、組織風土の改革が必要だと北村は感じた。そして、果敢にも実行に移していったのだ。
「トップが変わらないと風土は変わらないので、まず役員たちを富士山麓の研修所に連れていって議論させたんです。そうしたら、ある役員とある役員が大喧嘩になっちゃった。それで、こんな場を企画したヤツがけしからんとなって飛ばされちゃったんですよ」
といって、北村は豪快に笑って見せた。その後、太平洋アフリカ部次長、北米第二部長、海外部品部長を歴任。まるで、風土改革とは無縁の部署である。
北村の風土改革に対する意欲は、完全に消し去られたかに見えた。ところが、思いがけず事務合理化推進室長への辞令が下りた。社内改革を担当する部署であり、風土改革とも無緑ではなかった。
だがそこで、彼は絶望的な光景を目にすることになる。ファイルから資料を30秒以内で取り出すための訓練や、仕事の本質にとっては意味のない資料をつくらされている光景である。
それらのすべては、デミンク賞を取る目的のためだけに行なわれていたのだ。飛山一男前社長時代の89年6月、TQC(品質管理)活動のデミング賞受賞への挑戦を正式宣言。以後、社内はTQC活動一色に包まれた。それによって企業としての活動が合理的かつ効率的になれば、何もいうことはない。TQC活動も、本来の目的はそこにあるはずだった。
しかし、現実は逆だった。受賞だけが前提の、誤ったTQC活動のために、本来の業務が滞ったり、品質上のトラブルさえ増えていたのだ。
これを、壊そうと思った。デミング賞受賞挑戦をやめさせることが、僕の役割だと思った」(北村)

〈風土改革を揚げて経営トップまで巻き込む〉

 デミング賞受賞挑戦という目標を変えなければ、いすゞの将来は暗澹たるものになると、彼は考えたのだ。
ただし、経営トップが決断して全社的に取り組んでいるものを、正面から反対して簡単に止められるものでもない。まして、当時の北村の肩書きは室長でしかない。戦う前から、結果は明らかだった。
そこで北村は、違うところからのアプローチを考える。困難な状況を避けるのではなく、進んで社員が立ち向かっていき、本音で語り合えるような風土づくりをやろうと提案したのだ。
つまり、風土改革である。デミンク賞受賞の挑戦も、ある意味では会社の風土だ。ならば、その風土を改革すれば、デミング賞受賞挑戦といった愚策潰せると考えたのである。
そうした北村の意図を知ってか知らずか、この案を飛山前社長も承諾する。そして90年11月、風土改革に取り組むために、北村はいすゞ社員の教育研修を行なう子会社であるITEC(いすゞ能力開発センター)の社長として出向する。
風土改革を旗印に北村が最初にやったことは、改革のコアになるメンバーを集めることだった。
「風土改革は上からいってみても、絶対にうまくいかない。やはり中堅どころの骨があって、人望がある人が中心で進めなければいけない。だから、そういう人を一本釣りで集めていった」と、北村。しかも全社的にするのではなく、開発部門にターゲットを絞った。全社一貫でやると、結局はTQC活動のような無意味なものになってしまうと考えたからである。
そして、コア・メンバーを中心にして数多くのミーティングを組織していった。それを通じて、デミンク賞受賞挑戦のような無意味な活動を、社員が本音で批判できるような風土づくりを目指したのである。もちろん、そのための理論注入役として、北村自身が力を注いだことはいうまでもない。
その結果、91年2月、いすゞはデミンク賞受賞挑戦を断念した。さらに同年11月26日、QCサークルの発表の場として準備されていた大会が、批判の場に変えられてしまった。TQC活動に対する社員の不満は、ここで一挙に爆発。無茶苦茶な実態が暴露され、辛辣な批判の声が高まったのだ。
これがきっかけとなり、翌月の12月、TQC推進室そのものが解散となり、いすゞから無意味なTQC活動は姿を消した。北村の目指した「TQC潰し」は大成功を納めたのである。しかし、北村はそれだけでは満足できなくなっていた。

〈ついに会社も公認した本音で議論する委員会〉

 「TQC潰し」は成功したものの、そのためにはじめた風土改革は、まだ中途半端なものでしかなかった。本音で議論しあう、かつてのいすゞにはなかった風通しのいい体制がつくられつつはあったが、それで風土改革が終わったとは、北村には思えなかったのである。
しかしながら、このあたりで断念せざるを得ないだろうと北村は考えていた。
彼の風土改革を承認した飛山前社長に代わって、92年2月、関和平新社長が誕生したからだ。
「僕は関社長の人脈でも何でもない。だから、活動は続けられないだろうと考えていた」(北村)
しかし、その時期になると、風土改革は北村が孤軍奮関するようなものではなくなっていた。役員のなかにも、北村と同じように真剣に風土改革を進めようとする人たちが出てきていたのだ。彼らが北村を支持し、関社長に風土改革の続行を働きかけた。
それがなくとも、関社長自身が風土改革に強い意欲を持つひとりではなかったかと思われる。
関は社長就任直後、「いすゞのみなさまへ」という小冊子を社員に配っている。そこには、〈経営風土・企業体質の問題〉といった項目があり、こう述べているのだ。
「いすゞは、経営のやり方、業務の進め方を基本からやり直巣必要がある。その為には経営トップに始まり中堅社員から社員一人ひとりに至るまで、みんなが意識を改革しなけばならない」
かくして、北村の心配に反していすゞの風土改革は続行されることとなった。さらには、会社が認知した委員会のようなものにしよう、ということになった。こうして誕生したのが、前述した、92年11月発足の部長クラスによる「100人委員会」である。
「認知されるのはうれしいんですが、それで上に縛られるのはかなわない。だから、誰でも参加できて、出入りも自由という以前からの原則は守っています」
と北村はいう。だからこそ、部長クラスの会合ではじまった委員会に、主事クラスの中堅社員がスンナリと加わることができたわけだ。それがなければ、ほかの部署にまで飛び火して、活発な「100人委員会」の活動は展開されなかったに違いない。
これまで各部署で多くの100人委員会が開かれ、本音での議論をつづけた結果、いすゞの抱える問題は二点に集約できました。ひとつは環境の変化に対して後手後手にまわる情報への関心の低さ、もうひとつは金太郎飴的な社員を望んだ、人材への関心の低さです。これが、大企業病の原因なのです。
100人委員会の次の段階は、この元凶を解決することです。治療の段階にはいったといえます」(北村)「100人委員会」によるいすゞの風土改革は、着実に歩を進めつつあるようだ。しかし、それは名門いすゞ再生の第一歩に過ぎない。真価が問われるのはこれからである。

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