人生の転機と選択1 はじめに
学生時代に愛読した本に尾崎士郎の「人生劇場」というのがありました。青成瓢吉という人物の人生を描いたドラマチックな大河小説で、「青春編」「風雲編」「怒涛編」などをワクワクしながら読んだ覚えがあります。
今、70年の人生、そして35年間のサラリーマンの「人生劇場」を振り返るとき、喜怒哀楽、そして感動があり、起伏に富んだ「転機と選択」がありました。2 白井義男さんのゴングボーイ
私の父は小学校を中退して、石川県の山奥から東京に出てきました。明治時代のことです。そして、米屋の小僧として一生懸命に働いて、昭和の初めに米屋を開業しました。終戦後は菓子屋に転向、そのうちレストランなどを経営するようになりました。自宅が東京の北区にあったので私は中学2年生になるまでそこで過ごしました。
中学生時代のいちばんの思い出は元世界フライ級チャンピオン、白井義男さんのゴングボーイを勤めたことです。白井義男さんに憧れて王子拳道会に入門したのは、昭和27年6月、中学2年生の時でした。同年5月19日、後楽園特設リングでダドマリノ選手(米)を破って日本人初の世界チャンピオンになった直後のことです。白井義男さんの勇姿を身近に見たいと思って当時、練習場所にしていた王子拳道会に入門しました。最年少だった私はコーチや先輩のボクサーから「坊や」といって可愛がられ、間もなく白井義男さんのゴングボーイを命じられました。
ボクシングの練習は柔軟体操、シャドウボクシング、サンドバッグ、パンチングボール、スパーリングなどの練習を3分間やって1分休むというリズムで行います。現在、ボクシングジムのゴングは自動制御で鳴りますが、当時はストップウオッチで時間を計ってゴングを鳴らしていたのです。
私はいわゆるゴングボーイの役目を果たしながら、白井義男さんの練習をまじかで見るようになりました。練習は非公開で窓のブラインドを降ろして外から見えないようにしていました。道場では白井義男さん、コーチのカーン博士、それにゴングボーイの私、ときどきスパーリング相手の選手がやってくるというごく少数の人だけで練習をしていました。白井義男さんは同年11月15日のリターンマッチに備えて、カーン博士の指導を受けながら対戦相手のダドマリノ選手を想定した防御、攻撃の練習していました。当時はまだピストン堀口に代表されたように後に引かない攻撃一本やりのボクシングがもてはやされた時代でした。カーン博士は防御、攻撃のバランス、対戦相手の強み、弱みの研究、高度なワザをくり返して徹底的に練習するなど、科学的、合理的なボクシング技術を白井さんに教えていたようでした。
この白井さんの練習に関わることができたのは、昭和27年11月までの数カ月間でした。
白井さんは滝野川の自宅に新たな練習場所が完成し、私は北区から中央区日本橋の中学校に転校したからです。この数ヵ月の間、私は毎日、午後3時から午後9時まで道場が開かれている間、ゴングボーイとしてゴングを鳴らし続けました。そのような生活をしていたので学校の成績は1と2のオンパレードになってしまいましたが、ファイティングスピリットなど、社会に出てから役に立つ実戦的なことがらを学ぶことができました。
それから45年が経って白井義男さんをいすゞ自動車にお招きして講演をしていただいたのはこのときのご縁から生じていることです。3 退学処分、そして夜間高校へ
中学2年の11月、北区から中央区日本橋へ自宅を移しました。お店が発展してきたので、家族全員が仕事をしなければならなくなったからです。私も当然、家業を継ぐということで、中学3年の頃から見習いとして働きました。毎日、学校から帰ってくると、厨房に入って皿洗いをして、朝は5時に起きて暖房のボイラーを焚くなどの仕事を父の命令でやらされました。
私が退学処分になるような不祥事を起こしたのは高校3年の時です。東京・日本橋の都立高校に通っていた3年生の9月の修学旅行で最初の事件が起きました。
修学旅行先の京都でのこと。女子生徒の一人が私に「一回、祇園に行って舞妓さんを見てみたい」と言い出したのです。私はこっそり持ち出したお金を少し持っていましたので、「いいよ、見せてやるよ」と太っ腹なところをみせ、男子生徒と女子生徒の7人を連れて祇園に行きました。でも、祇園のお茶屋は高校生が入れるところではありません。しかたがないので近くにあった一杯飲み屋に入ってみんなでお酒を飲みました。そしたら調子にのって飲み過ぎてしまい、私と女子生徒3人がひっくり返ってしまって、タクシーで旅館にかつぎ込まれたのです。もう大騒ぎになりました。
東京に帰ってからは職員室に呼ばれて「なんで酒なんか飲んだ」「高校生のくせに」とお説教されて、全員、停学1週間の処分。職員室の前の廊下に『次の者、停学1週間を命ずる』とズラズラーっと名前が張り出されました。
翌月の10月、今度は近所の私立高校の学生と暴力事件を起してケガ人が出てしまいました。また職員会議で大問題になって、先生たちの間では「北村には前科がある」とか、「でも、退学させると人生がめちゃくちゃになる」とか、ずいぶん議論があったようですが、最後は退学処分という結論になりました。それでも当時は恩情がありました。担任の先生が私の家に来て「自分で退学届けを書きなさい」と、自発的に退学するかたちにしていただきました。高校3年の10月ですから、あと5ヵ月で卒業できたのにと思うと絶望的な気持でした。それでも美術の先生が親身に助言してくださったお陰で、翌年、私は夜間高校に編入することができました。夜間高校というのは昼間の高校と違って卒業に4年かかります。私の場合、4年生に編入できれば1年で卒業できたのですが、単位の関係で3年生から入り直すことになりましたので、通算5年をかけて高校を卒業しました。
その頃というと昭和20年代で、当時の夜間高校の学生は貧しくて昼間の高校に行けない人がほとんどです。男性は大工やコックの見習い、女性は看護士をめざすとか、タイピストやウエイトレスをやりながら学校に通ってきました。昼間の学生に比べると夜間の学生は努力する人が多く勉強に熱心に取り組みます。ああ、こういう人たちもいるんだなと目を開かされて、私の人生観は大きく変わりました。現場で働く人たちと目線を合わせて生きていきたいと感じたのはその頃のことです。そして、その気持は社会人になっても引き継がれていきました。
人生で成功することは大事なことですが、成功のうしろには失敗があったり、挫折があったりするものです。痛い思いをすることによって、生きるということに思いを巡らせたり、身に滲みて学ぶことがあるのです。不良少年として退学処分になったお陰で、私はいろいろなことを学ぶことができました。4 あこがれのサラリーマンになる
私は5人兄弟の末っ子で、兄や姉たちはみんなお店を経営しています。そういう環境の中でしたが、私はどうしてもサラリーマンになりたいと思いました。テレビの影響で「サラリーマンは格好いい」と思ったからです。そのうち私は大学に行きたいという希望を持つようになり、夜は夜間高校に通い、昼は大学受験予備校に通うようになりました。そして、通算5年間の高校生活を送った後、早稲田大学に入りました。当時の学園は安保闘争のさなかで学園全体が騒然とした雰囲気でした。私は学園での過激な学生運動に疑問を感じていましたので、授業のないときは、大学付近の麻雀荘に通っていました。時間のあるときは新宿の末広亭、上野の鈴本に通っていました。私の生涯の生活信条になった「GNN、義理、人情、浪花節」は学生時代に落語、講談、浪花節から学んだものです。
3年生になった時、「社会教育」のゼミの教授が仏教青年会に入ることを薦めてくれました。私は毎週、大隈庭園の中にある茶室で開かれる座禅会に参加しました。この体験も、その後の人生に大きな影響を与えたと思っています。
4年生になって就職の時期がきたので、いすゞ自動車に入社することにしました。
私は自動車が好きだからいすゞ自動車に入社したのではありません。サラリーマンになれれば、どこの会社でもよかったのだと思います。たまたま早稲田の同級生の父親が通産省の予算課長だったので、その縁故でいすゞ自動車に採用していただきました。今になって思うのですが、私のその後の人生の大筋を決めたのが、初めての配属先、人事課の教育係でした。ゼミの論文が「社会教育」だったからでしょう。
昔の私を知る友達はみんな驚いたようです。「北村みたいな悪ガキがなんで教育係なの」と。
会社に入ったからには真面目にやらなきゃいけないと思って一生懸命、働きました。でも私の考え方や態度、働き方に何か問題があったのでしょう。「命令に素直に従わない」とある経営者に睨まれて、職場を転々としたこともあります。
一方、私の特長を認めて活躍の機会を与えていただいた経営者にも巡りあいました。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」は本当のことだと実感したものです。
結局、35年間のサラリーマン生活を通じて、15回も職場を変わりました。
その間、いろいろな仕事を幅広く体験できたことが、現在の自信につながっているように思います。
20歳代の後半、2年半ほど労働組合の執行委員をやったことがあります。その仕事を通じて大きなキャリアを積むことができました。
労働組合というのは、上司がいて命令されて仕事をするのではなくて、ひとりひとりが責任者です。全国自動車労働組合連合会の中央執行委員(調査部長)というポストに就いた私は、傘下のいろいろな労働組合の幹部の人たちとやりとりをしました。たとえば、組合大会の壇上で説明をする私に、労働組合のプロのような人が矢継ぎ早に質問を浴びせてきます。そうすると、大学時代に麻雀ばかりやっていたので、知識がなくて答えられない。本当に恥ずかしい思いをして、これはもっと勉強しなければいけないと痛感しました。
そこで一念発起して通ったのが文京区本郷の東京大学です。といっても東大に入学したわけではなくて、仕事が終わってから夜間の労働講座に半年通い、当時の有名な教授陣から「労働経済」「賃金理論」「社会政策」などを勉強しました。きっかけはともあれ、必要にかられて真剣に学んだその半年間があって、私は執行委員の仕事を全うできたのではないかと思います。
その後、高度経済成長とともに、いすゞ自動車は海外ビジネスを拡大していきました。私は「英語力が役立つ時代がくる」と思いましたので、会社の英会話クラスへの参加、英検の通信教育、さらにはキリスト教会のバイブルクラスで英語を勉強しました。そして社内の英語検定試験で上位の成績をあげ続けているうちに海外部門に異動になりました。
海外部門の仕事で、特に印象に残っているのはアフリカを担当していた頃のことです。南アフリカ、ケニヤ、ザイール(現在のコンゴ)と3つのGMプラントを担当してノックダウン輸出に関わっていた頃、私はよくアフリカに長期の出張をしました。たとえばザイールの首都キンシャサには交通ルールも信号もないというように西欧文明的な秩序がありません。そんな国の山奥の鉱山にトラックを売りに行くのは、まさにカオス状態の中のビジネスです。頼りになるのは自分だけ。汗をかきながら現地の人々と仕事をしました。一方、南アフリカ共和国はアパルトヘイトの時代でしたから、人種問題を肌で感じて、ああ、こういう国もあるのかと大きなカルチャーショックを受けたものです。
(ザイールの首都、キンサシャで取引先の人たちと)
その後、海外部品部長になるとタイ、インドネシア、中国をはじめとするアジア、北米、ヨーロッパの国々の人たちとつきあうことになり、出会いは世界に広がっていきました。5 「たこ壷」の外の風景
50歳を過ぎた頃です。新しく就任した社長が「TQCのデミング賞挑戦」を宣言しました。当時は事務合理化推進室長というポストにいたのですが、「出勤拒否症」のような精神状態に追い込まれました。
なぜ会社に行くのが嫌だったのかというとTQCの発表会のために「つじつまを合わせ」の資料を作る仕事が続いたからです。50歳にもなって、なんでこんなバカバカしい仕事をしなければならないのか。こんなムダな作業に社員のパワーを注ぎこんでも会社はよくならないのに、と思いながら日々を過ごす、とてもつらい時期でした。
部長対象の「リフレッシュ休暇」があると人事部から聞かされたのはその頃です。
当時 130人ぐらいの部長がいたのですが、部長を対象にしたその研修は、時間をどのように使ってもいい、とにかく2週間の休暇をとって何かを実行してくるというものでした。会社に出勤するのが嫌だった私は即座に飛びついて、プランを考えました。そして実行したのが学生時代の友人を訪ねるというアイデアです。
会社の縁、つまり「社縁」というのは定年になると切れることが多いといいますし、年をとると利害関係のない友達が大事になってきます。考えてみると、昔、一緒に勉強した学生時代の友達には長い間、会っていないし、会うならお互いが現役のうちだと思って訪問することに決めました。
早速、訪ねたい友達の名簿づくりを始めると、中学校、高校、大学時代の友達だけでなく、労働組合の人や取引先で思い出に残っている人など、会社に入ってから知り合った人も加えることになって 100人ほどをリストアップしました。その時点で、どうみても2週間では時間が足りないので、さらに2週間の休暇を追加してもらい、4週間をかけてできるだけ多くの友達を訪ねることにしました。北は仙台から西は姫路まで、東京の近くでも、まとめて何人か集めるようなことはしないで一人一人、個別に会いました。私は仕事の話を聞きたいと思っていましたから訪ねて行くのは会社の職場です。一日だいたい3、4人のペースで、最終的に66人に会うことができました。
懐かしい友だちに会うのは格別に感慨深いものですが、それ以上に大きな発見だったのは、結局「会社はタコ壺である」ということです。
会社訪問をした66人の仕事は、ファッションだったり商社だったり食品関係だったり、学校の先生もいれば新聞記者や共産党の幹部もいます。業種もいろいろで、いろいろな仕事をしている。それをずっと見ていくと、世の中が変化している、どんどん動いているのがよく分かります。それぞれの業界に自分の知らない話がたくさんあって、しかもそれはすごい速さで変化している。
大学の同期会の終身幹事になったのも、「たこ壷からの脱出」という発想がきっかけです。
旧友たちを訪ねた時、長い間、同期会を開いていないので、また同期会を再開しないか、という声が出ました。ところが、やりたいとは思っているけど、住所を調べたり手紙を書いたり出欠のとりまとめをすることが大変だから、幹事をやろうという人がいない。それなら私が引き受けようと幹事になりました。同期生64人のうち5人が行方不明でしたが、何とか住所を調べて連絡がついて、以来、毎年1回、9月に開催することになりました。
平成元年から平成20年まで20回、続けることができました。集まった仲間たちは私が同期会のお世話をしていることを感謝して喜んでくれる。何かを企画して自分で動いてぶつかっていくと、必ず何かが変わる。そして喜んでくれる人が必ずいる。「まず行動することが大事」だということを、動いてみてつくづく実感しました。
66人の友達を訪ねた4週間の体験は私の意識を大きく変えました。6 社長に「風土改革」を直訴
私は50歳を過ぎてから、「狭い世界に入り込んでいるなぁ」と痛切に感じるようになりました。会社の中は自己完結型で、その中の秩序に従っていれば無風状態でいられる。定年までタコ壺の中に入っていても大丈夫だろうか、と大きな危機感をもちました。そこで定年になる前にタコ壺から脱出したいと考えるようになりました。
そこで社長に「いすゞ自動車をもっといい会社にするためには風土改革が必要。その仕事を私にやらせてほしい」と手紙を書いて直訴をしました。思いは通じるものです。間もなく、いすゞ能力開発センターの社長になり、そこでいすゞ自動車の風土改革をやるようになりました。その後、部下のいない「窓際部長」というポストを志願して風土改革を続けました。
52歳から始めた風土改革は数年後、壁にぶつかって二進も三進もいかなくなってしまいました。そのとき尊敬している会社のトップから言われたのが次の一言でした。
「風土改革がうまく進まないのは、君の人間性に問題があるからではないか。」
たしかに当時の私には「風土改革のリーダーとして自分の人間性のレベルはまだまだ」ということに気づいていました。
私はもう一度、自分の生き方を見直さない限り、せっかく旗揚げした風土改革は挫折してしまう、と思いました。そこで自分を変えるために今まで無縁だった世界に足を踏み入れることにしました。
一つは「志ネットワーク」(上甲晃氏主宰)に入会して「野心と志の違い」「志が大きなエネルギーを産み出す」ということを学びました。また「日本を美しくする会」のトイレ掃除にも初めて挑戦しました。サラリーマンの時代にはトイレ掃除をすることなど考えもしなかったことです。7 定年後、会社を立ち上げる
60歳で定年退職をするとすぐに「人と情報の研究所」という会社を創りました。
この「人と情報の研究所」を設立するのには、定年の直前に一つの伏線がありました。
それは10年前、慶応大学湘南キャンパスを訪れたことでした。慶応大学湘南キャンパスは最新の情報インフラを設備しているというので、以前、講演でお世話になった環境情報学部の教授にお願いして、見学の機会をいただきました。そのときに見せていただいたのがインターネットです。当時、インターネットは聞き慣れない言葉であり、会社でもほとんど使われていなかった時代でした。慶応大学の教授は「今後、情報革命が進んで、10年後には子供も老人もインターネットを使うような時代になる」と教えてくださいました。
「インターネットの時代がくる」と予感した私はすぐに最新のコンピューター機器を購入、プロの先生にお願いして個人レッスンを受けながら、メール通信やホームページの作り方を修得していきました。そし11年前からホームページを立ち上げて、「意識改革、風土改革」に関する情報を定期的に発信し続けています。8 ライフワーク「五感塾」に辿りつく
私は45年の間、「企業人教育」にかかわってきました。「企業人教育」の中身は、仕事に必要な知識、技術、技能の習得であり、いわば「仕事力」の向上ということです。
これからの時代の「企業人教育」のあり方を探る過程で「仕事力」の元になる「人間力」の育成が取り残されているのではないか、と考えるようになりました。
人間力がある人は「知性と感性」「情と理」のバランスがいいということが長年の観察を通じてわかってきました。人間力が磨かれた人は、学ぶ意欲にあふれ、いつも朗らかで人を元気づけるパワーが旺盛です。
その人の周囲には、いい仲間が集まってくるような空気があります。
本来、誰でももっている「人間力」が「仕事力」の陰に隠れてしまって表出できなくなっているおもな原因は、行き過ぎた「目標管理」「効率主義」「成果主義」の蔓延という現代の風潮にあるようです。
このような危機感と問題意識をもつ企業の方々と試行してきたのが、「人間力」を向上させるための「五感塾」という学習方法です。
「五感塾」は知識の詰めこみではなく「気づく力」「感じる力」を高めるために研修室から出て、地域の現場に身を置き、その地域に伝わる伝統文化、その地域のために働く志の高い人にふれて五感で学んでいきます。五感を高め、気づく力や感じる力に磨きをかけることによって、学び上手になっていきます。
この「五感塾」という学習方法の根底には松下幸之助さんの「万事研修」という教育観が流れています。「万事研修」というのは「見るもの聞くことすべてに学び、一切の体験を研修と受け止めて勤しむところに真の向上がある。心して見れば、万物ことごとく我が師となる。」という考え方です。
(沖縄での五感塾、座喜味城址で)
「五感塾」で大事にしていることの一つに「一隅を照らす人々」に出会うということがあります。「一隅を照らす人々」はごく普通の生活を送りながら、地域がよくなることを願い、地域のために働いている人たちのことです。
これまで「五感塾」は臼杵、小布施、沖縄、岡崎、佐渡、奄美、伊東で開催してきました。
今年は阿波、米沢、海士の三つの「五感塾」を開催、来年は北九州での開催を準備しています。「五感塾」はなるべく都市化が進んでいない地域、地域共同体の雰囲気が残っている地域を候補地として探しています。日本という島国にある小さな島々は「五感塾」の恰好の場所になります。
これからも新たな五感塾の場を創っていきたいと思います。
すでに数カ所の候補地が浮かび上がっていますので、関係者のみなさまの協力をいただきながら具体化していきます。
今までに実施した「五感塾」はさらに改善しながら継続して実施していきます。
「五感塾」は小さな活動ですが、この小さな一石の波紋があちこちに広がっていくことを願っています。
9 最後に感謝を込めて
私の人生劇場は今、「本番の真っ最中」です。野球で言えば定年は6回の裏、ラッキーセブン(本番)は定年後にやってくることを実感しています。
70歳を超えて人生を振り返ってみると、「人生は枝分れの連続である」ということを実感します。そして枝分れのときに必ず誰かが関わっていました。私をいい方向に導いてくださった一人一人の皆様に心からの御礼を申し上げ、そして人生というマラソンを完走、ゴールするまで気を抜かないで精進していくことをお約束して、この拙い文章を閉じたいと思います。
有難うございました。
平成21年1月 「ヒトの教育」第5号に掲載
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