いま、なぜ場を考えなくてはならないのか

清水博 (金沢工業大学 場の研究所) 

              
 今日はどうも、お忙しいところをお集まりくださいまして、本当にありがとうございました。さきほど、久水先生からたいへん立派なお言葉をいただきまして、私はもうしゃべることはないんじゃないかと思っているぐらいなんですけども、なぜこういう集まりを持たせていただいたかということの、ご説明をさせていただきたいと思います。
 私は、社会のいろいろな方面のお世話になって研究をさせていただいてきたのですが、なかでもホロニック技術研究会にはずいぶん研究を支えていただきました。思うことをそのまましゃべっていると、学会から疎外されて研究を続けていけなくなるという心配もありがちですが、社会の皆さまのおかげで、私は自分の節を曲げずに、これが正しいと思うことを主張することができました。私を支えてくださった、そうした民間企業の方々のご厚意によりまして自分なりに正しい方向に進むことができて、本当にありがたいと思っています。
 ところが、ここへきましてどうも社会の景気が思わしくない。そして社会のあちこちで場の荒廃という現象が出てまいりました。こういうたいへんな時に、お世話になった社会になにもお返ししないまま死んでいっていいのかなと思いまして、いままで私たちが研究のために貯めてきたお金を、この機会にぜひ社会に還元すべきではないか、自分の研究を現状の困難を解決する方向に進めて、その結果わかってきたことを、「場と共創」とういう冊子にしてお配りしようと思ったわけです。
 本日の会をもたせていただいたことには、もう一つ大きな動機があります。この頃の若い人々と話をしていていつも胸を打たれることなんですが、若い人の夢をこれだけ奪っていいのかな、ということですね。若い人がいまの社会のどこに夢を描くことができるのか、こういう社会を大きな借金ととも残していっていいものかな、と。これが、私がずっと悩んでいる問題であります。こうした問題は、ヨーロッパヘ行って話してもひじょうに共感されます。そういうことがなぜ起こるかといった点について議論していきますと、さきほど久水先生もおっしゃったように、やはり近代という時代をつくってきた考え方に限界が来たということですね。ヨーロッパの方もそう見ているようです。
 近代という時代は偉大な進歩をもたらした時代であったけれど、しかし、いまここにきてその限界があらわになってきています。西洋の人々は、自分たちの知恵だけではこの限界を超えることはできない、東西の考えを融合して、新しい時代をつくるのに必要な考え方を作らないといけないのではないかと考えてているようです。こういうことを何人かの学者から言われまして、私も、確かにそうだなあと思っているわけです。
 いままで、とくに20世紀は世界を自分の外側に見て、その世界を広げていこうと考えてゃってきたわけですね。その結果、さまぎまな進歩があったことはたしかなんですが、人間の内側の世界を変えずに外側の世界だけを変えるという考え方ではどうしても解決できない問題がたくさんあることがわかってきました。たとえば自然環境の破壊が非常に進んでいるということが言われていますね。たしかに自分という外側の世界は大きく変わってしまいました。ですが、大きく変わったこの世界を、人間やほかの生きものたちが生き続けていける世界にしようとするなら、外側を変えるという考え方ではだめなのです。なぜかというと、外側の世界、いまの場合で言えば自然が破壊されてきたというのは、外側の問題ではなく、じつは我々の精紳に問題があるからです。内側の精神が荒れていることが外側に表現されているということなんです。
ですから、外側だけいじってみても治らない問題ですね。外側を変える、外側が変わりさえすれば、という原理がつまづいているのです。家庭、社会、それから経済の問題も基本的にはみなおなじです。われわれはこれらの問題ではみな、外側を変えよう、変えようとやってきて、大きな限界があることにようやく気づきはじめた、でも気づいたときには、ここまで場の荒廃が進んでしまっていた、ということです。我々が生活をしている場が荒廃しています。それは我々の精神の世界が荒廃していることの一つの現れなのです。
 現象として現れたところだけを直そうという対症療法はもうできない。そういう時代です。外側の世界を直すために、どうしても内側に目を向けなければいけないところへ来ているわけですね。外と内を切ってしまうことはできない、外と内はつながってるよ、ということです。このつながった大きい世界のなかで、もう一度、人間にとって進歩とはなんであるか、幸せとはなんであるかということを、問いかけてみないといけないんじゃないか、これを言いたいわけですね。
 とくに最近は、自分自身のことは問わずに自分の外側の世界だけを変えようという風潮が強くなった。しかし、自分の内側を自分が見たときに、我々はいったいどれだけのことを知っているか? 我々は自分自身について、とくにその精神的な面について、どれだけのことを知っているか? 自分の手とか、そういうことはわかりますが、私の言ってるのは心のはたらきのことです。ソクラテスは「汝自身を知れ」という神の言葉を不可能な命令として感じたといいますが、いったい、我々にはどれだけのことがわかっているのでしょうか? ここで、東洋の知と呼ばれているものについて、少くとも尋ねてみる必要があると思うのです。「そんな古くさいものは知らない」と切り捨ててしまうのではなくて、時のなかで、二千年以上もの時をかけて蓄積されてきた知恵とはどういうものであったか、そういうことを尋ねる。そのうえでそれを西洋の知恵と融合する。もちろん時代は変わっていますから、いまや東洋の知恵だけでゃっていけるわけではない。これからはどちらかではなく、東洋と西洋の考え方を融合していかないといけない。
 言い換えると、内側と外側をつなぐ一つの新しい考えを出していかないといけないのではないかと、私は思っております。内側の世界と外側の世界がつながった世界、それを私は「自他非分離の世界」といいます。外はむこう側、内はこっち側と分けるのではなく、内と外がつながって、人と人とが心でつながる自他非分離の世界、そこに新しいフロンティァを見つける、そこに問題を発見していく。そういうことを一つの夢として開拓していく。人と人とがつながれば、人と自然もつながっていくと思います。それを、こういうふうにやるんだよ、と幾つかのサンプルをつけて若い人に手渡したい、と。これが、私の願っていることですね。そのためにはいろいろなものを変えていかないといけません。そこでいちばんたいせつなことは、我々は我々をどこまで変えることができるかということです。それこそが、ここでお話ししたいことなんです。問題は実行ということですから、私一人がどうあがいても駄目ですし、どうせ私一人の知恵なんてたかが知れておりますから、皆さんのお知恵が必要なわけです。
 最初に触れました生活の場の荒廃ということですが、考えてみると自然も生活の場です、社会も生活の場、我々の職場も生活の場、家庭も生活の場、それらがみな荒廃してきたということは、これは人間の問題なんです。これは象牙の塔の中で研究すれば解決するという類の問題ではありません。その「場」の中に生きている人々がみずから自分自身の問題として取り組んでいかなければならない。それが私が言いたいことです。問題を持っている当の人間が考えなければならない。私はむしろ、今日重大な問題に直面されてる産業界の方々が、核心というか中心になると感じています。もちろんそれだけじゃないですよ。たとえば大学人といえども、大学という場の荒廃に直面しているわけですから、どんどん参加していただきたいわけです。
 産・官・学という言葉がありますが、そういうふうに分類してしまうこと自体が、すでにちょっと古いんです。人間として、我々一人ひとりがどう進むのか、我々一人ひとりどのように文化を創っていくのか、これがポイントなんです。こういう観点から、進歩というのはどういうことかを、もう一度自分たちに問いかけてみて、なにかしらの理論が必要になるとしたら、今度はどういう理論をつくればよいか。その理論は自分の外側の世界を計算するためだけのものではないんですね、自分の内側の世界にも目を向けた理論でないと困る。ではどのように、その理論をつくっていくか。皆さんとともに私がやりたいのは、たとえばこういうことです。
 この外側の世界と内側の世界がつながった世界のことを「場所」と呼ぶことにしましょう。「場所」という言葉は、西田幾多郎が使った言葉ですけれども、場所の問題、これが中心になる文明が次の文明ではないでしょうか。いままでの文明が外側の世界の文明すなわち物質文明であるならば、次の文明は「場所文明」になる。「場所」と「場」こそが、次の文明のキーワードです。どういうふうにキーワードか、というのはだんだんお話ししていきたいと思います。
 いま世界は文明の転換期の苦しみの中にある。で、この転換期の苦しみは、じつは日本にとってはむしろチャンスと考えるべきです。バブル経済がどのように生まれ、そのバブル経済がどのように崩壊したかを経験したことを、転換のチャンスを与えられたと考えるべきではないかと、私は個人的には思っております。
 こういう一大転換期にあたって、日本という国の文化的位置は、世界史の中で見て恵まれています。歴史に残る世界初期の文化の一つとしてインドの文化があります。仏教はそこから出てきますけれども、インドはやがてアレクサンドル大王の東征によって西方のイスラム文化の影響を強く受けます。東と西の文明が出会って混ぎった文明が生まれる。で、そういう文明の中で生き残った仏教が次に中国に渡る。中国には中国独自の発達した文明があったわけですね。道教は皆さんご存じだと思いますが、中国の文化が、さらに仏教に混ざっていきます。それが韓国を通じて日本に伝わり、最終的に、日本で成熟したわけです。
 そういう意味で、我々が持っている伝統的な文化とはいったいどのようなものかを、もう一度このような世界文化の流れの中に置いて考えてみる必要がある。こうして日本の中に入ってきた文化の流れがそこで留まり、禅文化の形で成熟していったわけです。それが日本の場の文化です。それは日本だけが創ったのではない。世界が参加して創ったと思います。ですから、場の文化はそれだけポテンシャルのある文化なんです。
 今日、西欧の人々が京都に来て場の文化に接し、「我々の文化とは全然違うものだけれど、いいなあ」と、大きな感銘を受けるわけです。私は日本人ですから禅や場についてはいろいろ勉強してきましたが、私がひじょうに影響を受けたのは、じつはアメリカの青年なんです。ある日、私がいろいろ指導していただいた禅の秋月龍瑞先生という−ご存じの方も多いと思いますが、先日、惜しいことにお亡くなりになりました−その秋月先生から、今度NHKのテレビで「禅の世界」という番組を放映するから、ご覧なさいと言われて、見たんですね。
 そこに、アメリカの青年が出てきました。禅僧になったという青年です。そのきっかけを、彼は竜安寺の庭を見たことだと言うんです一竜安寺の石庭を見ていると、毎日違って見える。これは単なる感情移入とか錯覚なんかではない。この石庭はもっと生成的なものだ、なにかがこの場所で生み出されているー。で、初めてそういう体験をして、この青年はすごく感動します。そして、もっとその核心をつかみたいと、いままでの生活を変えたわけです。
 これは私も体験しなきゃいかんと、とにかく私も意を決して竜安寺の庭に行ってみました。あそこはひじょうに混みますから、年末に訪れるのがいいですよね。
 その時期に行くと、一人になれます。すると、彼が話していた意味がわかってくるんですね。自他非分離ということを、まさに体感したのです。そんな文化が創られたのが、いまから400〜500年前ですか、室町のころですね。場の文化がどういうふうに創られたか、どういうものがあるかということを調べてみると、我々の祖先はずいぶん創造的な生き方をしていた。しかし現代に生きる僕らは、いま、それを受容してるだけじゃないかと、強く感じたわけです。
 それなら、我々自身はいったい何を創って、子孫の幸せのために何を伝えることができるのかと、恥ずかしくなりましたね。私もひとつ、場というものを本格的に考えて、それを発展させて子孫に伝えなければならない。そこで現代という時代に適合した場の理論というものが考えられるとしたら、それはどういうものか。ひじょうに興味を持ったわけです。日本が、これから世界に於いて立ち、世界に向かって発言していくうえでも、やっぱり日本の場の文化は捨てられないのです。文化というのは言語と深く結びついているために、変えることはできるけれども、捨てることはできません。生まれた時から日本語を聞いて物心を得たわけですから、その日本語を捨てろといわれても、無理ですね。文化とはこういうものだと思います。
 変えることはできるけれども捨てられない。そういう文化の上に立たなければ、国際的な自己の表現なんてできないのです。日本が持っている文化的ポテンシャルに、もっと目を向けようじゃないか、それが「場の文化」といえるでしょう。東西の知の融合に立つ文明は、時代の必然です。生活がこれだけ国際的につながっていて、文明だけはわかれわかれなんて、そんなことがあるはずはありません。それに向かって、我々はいちばんいいところにいるんじゃないでしょうか。
 これは私は専門家ではないので正確さを欠くかもしれませんが、インドから中国に渡った仏教は、けっきょくは道教に実際面で負けるわけですね。道教のほうが、実際的で有益な面が、少なくとも政治にとって、有効な面を持っている。おそらくそうした理由で中国では実際的に消えていって、それから仏教は韓国を伝って日本に来のですが、その韓国もいまはキリスト教が圧倒的に優勢ですね。それからもともと仏教の地であったインドにおいてさえ、ヒンドウーにおさえられて仏教の影響は大きくはない。
 そういう意味では、本当に大乗仏教という仏教の精髄が現在まで伝えられているのが、チベットと日本だけですよ。また禅が生きている国は、日本だけでしょう。日本にはそういう世界史的文化が生きている。なぜそれを活用しないんですか。いまや時代背景は、我々にそれを活用してほしいと要求しています。これを活用するためには、我々自身の文化的な自覚が、ひじょうにたいせつです。
 その活用を具体化していくうえで、我々にはもう一つ重要な遺産がある。それは私は西田哲学だと思う。ドイツの人などは、日本人はいいなあ、西田哲学を持ってるじゃないかと、こういう言い方をしますけれども、外から見たときに、そう見えるものがある。西田さんは、東西の文化の融合を考えた人だと思う。あの時代にそこまで考えた人ですから、凡人じゃないです。並々ならぬスケールの構成カと創造的な想像力を持った人です。
 西田さんの思想には限界があるという言う人もいる。僕もそういう点があるとは思うけれど、しかしあの人の問いかけたこと、そしてそこから基本的な要所に置いた石、これは動かしようがないと思いますね。今後の時代におけるランドマークになると私は思っています。西田さんの限界を、傍観者的に批判をするばかりじゃなくて、もしも批判するなら徹底的に勉強してから批判したらどうかと、私は思うのです。それなら役に立ちます。しかしちゃんと勉強している人は、本当に少ないと思うんです。勉強しても、本当に分かっている人は、まあ私もどこまでわかっているかわかりませんけれども、ひじょうに少ない。 
 いま、こういう時代ですから、場所についての本がかなり出ているとしても、本当の意味で西田哲学を場所文明をつくるために使えるところまでいってるものは、ないと思いますね。西田さんがやられたことは、自分の内側の世界中心です。で、我々がやらなければいけないのは、社会を変えることですから−つまり荒廃している我々の生活の場をなんとかしようということですから−これは我々が西田さんから一歩も二歩も外側の世界に向かって出ないといけない。そのためには、西田を尊敬するあまり、彼の学問に帰依してしまうということではまた困るのですね。日本の社会では、すぐ、帰依するかそれとも全面的に否定するかの二者択一となりますが、これは私が主張していることではない。
 日本人にとっていまたいせつなことは、当事者になることなんです。さきほど久水先生も言われましたけれど、いまこの場の荒廃した社会を創ったのはだれかというときに、あいつらが創ったんだと他人のせいにする言い方をするのは当事者の立場になっていないからです。自分が創ったんだというように、自分の中に受けとめる心がなければ、絶対に場の荒廃は変わらないですね。私自身は、これは自分の責任だと痛感しております。道義的な責任というのはそういうことだと思うんです。まあ、ある銀行の経営者は、あなたにも責任があるんじゃないですかと言われて、いや、私は関与していないから責任はないという。これはやっぱり傍観者の言葉であり、だれが聞いても変ですね。
 日本のこの現状に対して、外国の人にたずねられたら、私たちの責任じゃないとは私たちは言えないじゃないですか。これは私の責任だと言わざるをえない。まず第一に必要なのが、この、自分の責任だと認めることです。次にたいせつなのが、自分を疑うということです。他人を疑うんじゃないですよ。他人を疑うのは簡単です。あいつが悪い、こいつも悪いと言いっぱなしで終わりですが、いちばんたいせつなことは、自分を疑うことなんです。日々進歩していく人というのは、自分を疑うことができる人です。
 昨日までの自分を疑うことによって、今日の自分がある。その今日の自分を疑うことによって、明日の自分がある。柳生新陰流の柳生石舟斎は、「昨日の我に今日は勝つ」と言っております。昨日の我を疑って、今日はそれを超える、ということです。私は、皆さんとご一緒にこういう生き方をしてみたいのです。自己を日々疑うことこそが、知力の向上の基本です。世間でいう知力というのは、学校で教えてもらっている知識にしても、外側を疑う知力ですね。なにか起きたときに他人を疑うことは簡単です。ところが、私がいま言おうとしている知力は、自分を疑う力のことです。自分を疑う知力を持つことによって、知は向上しつづけます。停年になって、やることがなくなってしまったとしゅんとなってしまう方と、停年になって精神的にますま元気になる方は、なにが違うのでしょうか。
やはり私は、自分を疑う能力を身につけて日々知的に向上しているかどうかがポイントだと思います。こういう知力をつけていれば、高齢者は、ある意味で充実の時を生きることになるんです。
 体力とか外側の世界に対する行動では、若い人にはとてもかなわないでしょう。しかし、内側の世界にかけては、昨日の自分を否定して超えていくという体験を重ねると、内側の世界が広い高齢の方々のほうが、むしろ充実していると言えるかもしれない。大きい転換ですが、それが我々に幸いする生き方があるわけですね。
 自分の内側の世界を考えていくと、次のようなことになるのではないでしょうか。西田は、「主語的」、「述語的」という言葉を使いました。わかりやすく言えば、「明在的」と「暗在的」と言い換えることができると思います。明在とは明らかに存在すること。暗在とは、在ることはわかるけど、どこに在るかわからない、そのため、はっきりとした情報に変えることはできないということです。
 内部を開拓しましょうということは、暗在的な部分に目を向けましょうということです。暗在的なものというと、たとえば、自分の身体とか感覚のはたらきです。これは100パーセント情報として出すことはできません。たとえば、「泳ぐ」ということ。これは身体に関係しているわけですが、これを、全部データで示せと言われても、ちょっと示しきれませんね。泳げない人に、どうやったら泳げるかを、言葉だけでは伝えられないわけです。身体を使って覚えろと言うよりしようがない。
 それから、「美しい」ということもありますね。美しいとはどういうことか。言葉や数値で説明しろと言っても、自分の心で感じるものだから、これもデータとしては取り出せません。「夕日は美しいね」、「朝日は美しいね」、これは言えます。だけど、朝日も夕日もまったく目にしたことのない人に、それが美しいと言ったところで伝わらない。こういうものが暗在的なものです。
 今日厳しく問われている倫理も、暗在的なものです。内側の世界と外側の世界がつながることから、倫理というものは出てくる。外側の世界だけで考えていると、倫理は出てこない。ですから、いまの計量経済の理論の中には倫理の問題は入りようがないんです。
 考えてみると、「知」というものに二つあることがわかります。一つは、対象知。物事を対象化して自分の外側に置いてみて、それを眺め、データ的情報を取り出して分析したり処理したりするところから出てくる知ですね。学校で教える、いわゆる知識もこのようなデータ的情報です。
 もう一つが、場所の知。暗在的な、言葉やデータなんかだけでは表現できないものを扱う知です。明在的な表現と暗在的な表現というのは、これからひじょうに大事です。そういう意味で言うと、皆インターネットに期待しすぎてると思います。インターネットというのは明在的な情報しか入らないんですよ。だから当然、倫理などというものは、そこから抜け落ちてしまう。
 もちろん、インターネットは便利です。私も使ってます。しかし、便利ということばかりにあまりに目を向けすぎているのではないでしょうか。便利というものが持っている裏側を考えてこなかった。一つの便利を得るために、その裏で切り捨ててきた多くのものがあるということです。私は便利を捨てろとは言いません。でも、それだけでは何か足りない、それを超える知が必要だと言ってるわけですね。これが場所の知ということです。この知を、強めていこうじゃないかということです。
 たとえば、野球の流れっていうものがありますね。流れに乗ってくると、皆が打てるとか。マジックが点灯すると、皆すごい能力をどんどん出しはじめるわけです。ところが、その次の年に同じように能力が出るかといえば、出ない。逆に低迷したりして、「あの時はウソみたいに打てましたなあ」と不思議な気持ちで振り返ることになる。
 これはいったいどういうことなのかを知るには、暗在的な状態を考えないといけないと思います。人間には、精神的な活力というものがあります。精神的なエネルギーと言ってもいいですね。この精神的なエネルギーが大きい状態ができると、自分自身が変わって、いままでできなかったことがうそのようにやれるようになる。そこがひじょうに重要なところです。野球の流れに乗っている選手というのは、精神的な活力が上がっている。だから、普通の状態ではできない集中力ができて、能力を発揮できるわけです。これは、偶然そうなったという問題とは、まるで違いますね。
 同じことが、景気についても言えるのではないでしょうか。景気のいい時、悪い時で、やはりその精神的なポテンシャルが違ってくる。いまみたいな時期にも、高いポテンシャルを保てる企業は発展するでしょう。大きい小さいは関係ありません。ポテンシャルが高いか低いか。どうしたら、このポテンシャルーこれは場所的な知ですねーを、増幅することができるか、これがひじょうに重要な問題になります。さきほど自己改革という言葉が出ましたけども、自己改革とは、いままでの自分を自分で打ち破るということです。それだけにひじょうに精神的なエネルギーが必要です。それだけの精神的なエネルギーを、どうすれば出せるか。それを考えないといけないですね。
 日本が大きく変わった明治維新は、そういう自己変革がおこなわれた時期ではなかったかと考えています。日本を変えたのは若い人々、20代の人たちです。その人たちが、長い一つの時代精神のなかで、野球の例のように、いま風が吹いてきた、いまが攻めどきだと感じることができて、そのために精神的に高揚して自己変革をおこない、未曾有の大事業を成し遂げることができたのです。自己改革によって自分の能力、持てる力をフルに発揮できるのです。我々も、そういう生き方をしたいわけです。そうして、この苦難を突破したいですね。
 精神的なエネルギーの増幅は、場所的な知力が高いか低いかと関係するし、また人間としてどこまで向上できるかということとも関係していると、私は思っています。創造でもこれは必要ですね。創造するとはどういうことか。自己が解こうとしている問題がある。
その問題を自分なりに解こうとしたときに、いまの自分の能力では解けない。自分を変えなければその問題は解けないということが、だんだんわかってくる。これが創造です。新しい内的世界を発見し、新しい場所を創るということです。
 だから創造のプロセスにおいては、根本には自己改革が必要であり、そのことによって外側の世界の問題と自分がつながるということが起こってきます。したがって、自己改革によって流れを創るのです。自分が受身の姿勢をとっていたら、絶対に創造はできません。創造には精神的エネルギーの増幅が必要なんです。こういうことはあんまり学校では教えませんね。新しい問題の発見によって得た感動があり、そしてその感動から得た精神的エネルギーによって自分を不連続に飛躍させて問題を解く。これがポイントです。
 感動を通じて自分が生みだした自分を精神的に高めることができる。そういうことができる人は創造のエネルギーがあるといえるでしょう。脳の抑制的なはたらきが、観念となって私たちをいつもがんじがらめにしていますが、この抑制も、感情がきわめて高揚した状態になると解放される。その時に自分が変わるきっかけが生まれるのです。
 野球のゲームの流れもそうですが、流れというものは機を逸すると逃げてしまいます。
これは、人間の感情のはたらきはふつう一時的なもので、やがて醒めてしまう性質があるからですが、腹を立てて怒っている人が怒りの言葉を口にすると、自分の言葉に興奮してますます怒りだし、手がつけられなくなるのも、よく目にする現象です。こうなると、その怒りはなかなか収まりません。これは、感情の働きに、感情を発揮するとそのおなじ感情が強められる自己増幅作用があるからです。野球のゲームにもこのような自己増幅作用があるために、選手が申し合わせたように機を同じくして活躍するのです。この自己増幅作用は、一定の間をもって感情的な興奮が循環することから起きているらしく、流れのなかにあるときに間の抜けたゲームをすると流れが敵方に行ってしまうことも、しばしば経験されるところでしょう。これは、間が合わないために自己増幅作用が止まってしまったということです。
 創造というものを考えると、機を逸せずにリズムに乗れということは共通しています。これは、創造の根底に感情のはたらきがあることを示している、ということにならないでしょうか。
 それだけでなく、野球のゲームの流れもそうですが、場の中で強められて増幅するという特徴があります。野球の技術の練習には客がいなくてもよいのですが、ゲームの流れができるかどうかになると、場が重要なはたらきをします。監督や選手のことばを聞いていると、球場にどんな観客がどれほどいるかで、流れをつくりやすい球場とつくりにくい球場というものがあることがわかります。この点は創造でも同様であって、創造に適した空間というものがあると私は思っています。場所的なエネルギーを創造に向かって動かしているのは、人と一緒に生きていることへの共感です。私は、たった一人で論文を書いているようなときでも、自分の書いたものを一所懸命に読んでくれる人がいる、そう思うだけでエネルギーが出てきます。
 それから、座禅。感情的に高揚するということとはちがいますが、座禅も結果的には脳の拘束を解くはたらきがあると思います。おそらく西田幾太郎の創造性の一部は、こういうところからきていると、私は思っています。
 いまこうして皆さんとともに会場にいると、私は暗在的なコミュニケーションというものを実感します。暗在的なコミュニケーションは、言葉ではなくて、表情とか身体の動きとかによって伝わると思います。言葉にはならない現場のコミュニケーションです。それが共感を引き起こしたり感動を伝えたりしますが、いままでの情報的なコミュニケーションには、これが欠けているのです。私は、これを「身体的コミュニケーション」あるいは「非分離的なコミュニケーション」と呼んでいます。非分離状態になることによって、ある人を高揚させているものがほかの人に共感的に伝わる。教育も、本当はそういうものじゃないですか。ある教育者の精神が、映るようにして弟子に伝わるという、これが、本来の教育ですよね。ホンダ技研の創始者の本田さんは、たぶんそんな人だったかもしれないと、よく存じあげないながらも、私はそう感じています。そういうタイプの教育は、たしかにあるわけです。
 場において、我々の場所的知力は高められる。場所的な知力が高まって、創造的な変化が、社会に一斉に起きてくるという現象と関係しているのではないかと思います。
 「因果律」というものを、皆さんご存じですね。心理学者のユングが、因果律は現代のドグマだと言い、ドグマを信じすぎることへの懸念を語っています。外側の世界を内側の世界から切り離して考え、そこで起こっている出来事の結果を原因に遡って説明するものが因果律です。ところが、因果律は反省にはたいせつですが、創造のように未知の未来に向かう現象には使えません。自分の心の内側と外側がつながっているときに、その広い世界の中で起きる変化は因果律では描けないのです。自分の心の変化を因果律で予見できると思いますか。それができれば、ソクラテスは悩まなかったでしょう。いまお話しした精神の高揚とか自己変革とかといったことは因果律では説明できないですよ。突然泳げるようになったということを因果律で完全に説明できるでしょうか? できませんよね。
 結果が出てから因果律的に語っていく「見えている世界」とは異なる「見えていない世界」があります。創造はその世界の出来事で。自分を変えることによって、外との出会いを広げていく、外の世界も変化してしだいによく見えるようになる。これは、「縁起」ということです。暗在的な世界を変えることによって、外側の世界と自分との関係も変わる、やさしく言えば、これが縁起です。近代科学は因果律で世界を説明しようとするから、この縁起ということをちゃんと取り扱っていないのではないだろうか。西欧の人々に縁起がきちんと分かるように説明したい、また僕ら自身も理解したいと思われませんか?
 「競争」、コンペティションが進歩をもたらすという考え、これは因果律に基づいています。こうやって、ああやって、その結果こうなって、ああなってっていう、素人の将棋の論理がこれです。これもたいせつですが、将棋の達人となると、因果律だけじゃ駄目です。いま創造の時代を迎えようとしている我々は、そういうところへ来てるんです。
 因果律を超える創造的活動が「共創」であり、これは嫁起による活動です。自分の心のあり方を変えたために、誰かとひじょうに仲良くなり、自分の世界が広がって、ともに創造をすることによって想像を超えた変化が起きた、そういう世界が、縁起の世界なんです。内側の世界を問題にすると、因果律的な考えだけではやれませんので、どうしても縁起ということになります。競争だけではそういうところへ来ません。
 これからはさまぎまな価値観や文化をもっている人々が一緒に生きていかなければならない時代になっていきます。そうなるとますます、縁起ということがたいせつになるのではないでしょうか。それは国際的な共創社会を迎えるということです。社会を、どうしたら縁起的な社会にすることができるのか。
 共感なくして共創はありません。先に述べました理由から、共創では自分の内部の暗在な部分の働きを考えなくてはならない。そういう部分は、情報に変えることができません。情報に変換できない部分が残ってしまうわけです。たとえばさきほど申し上げたように、泳ぐということ。みずから泳いでみせることによって、これが泳ぐことそのものだ、と実賎で示すことはできます。けれども、泳ぐという内容を言葉だけで100パーセント表現しきることはできない。
 私は、近代文明が破綻の危機に瀕しているいまこのとき、情報に変えることができないこうした問題をどう取り込むかが鍵を握ることになると思います。言葉とかデータでは表現しきれない世界があることをあまりにも考えていない。だれもが、これからは情報だと言います。もちろん、それも大事なことですよ。しかしそれだけじゃ駄目だという時代が来ているのではないでしょうか。一口に言えば、情報だけで通じる社会は因果律的社会、暗在的な心の内まで加えた社会が縁起的社会です。共創は、縁起的社会での活動様式です。
 皆さん『場と共創』というこの冊子、持っていらっしゃいますか? そこに、私は新幹線とローカル線という表現で、この二つのいき方を書いています。21世紀の社会について言えることは、新幹線だけでは駄目だということです。新幹線が追求するのは効率と便利、それからビジネス的な目的、外側の目的です。新幹線ではなによりもスピードがだいじですからね。つまり、見える結果だけがたいせつであるという結果主義です。そこでは、人間は軽視されがちになります。それは結果から見る因果律的な世界と言えるかもしれないですね。20世紀に入って人類はいままでスピードアップ、スピードアップでずっとやってきて、世紀末のいま、もっとスピードを上げようとしているかに見えます。皆さん、ついていけますか? 私の体験から言えば、高齢者になるともうとても駄目ですね。
 一つ例をあげるとコンピュータです。ソフトが変わるとそのたびにコンピュータを買い替えなければならなくなる、ハードやソフトのメーカー間では激烈な競争が年中繰り返されていることから、買い替える時期が短くなって、ものすごくお金が要ります。資源の浪費でもあります。定年後の皆さんに、そんな競争についていく資力がありますか? ない人はどうなります? この新幹線から、振り落とされる以外ないということではないでしょうか?
 つまり、新幹線方式には「生きるということ」を重視する考えが入っていないから、そういうことになってしまうんです。生きるということは、目的に到達することではありません。日々の営みと、その営みを味わうことです。歩くということです。いまの時点では、新幹線も必要でしょう。でも、新幹線方式とはちがう走り方も創っておかなければ、新幹線のほうも走れなくなってしまうのです。
 このあいだ厚生省の人が「若者が高齢者を支えるという考え方そのものが破綻しました」と言うんです。すると我々はどうなるんですか? 高齢者は高齢者で食っていけ、ということになりますね。さて、そうなったからといって、高齢者はもう新幹線のスピードと料金にはついていけなくなっている。お金の問題以外にも、年をとってくると、マニュアルを読んでもすぐ忘れてしまうから、新しいソフトがどんどん出ても新しい使い方をそんなに覚えられない。若いうちは、マニュアルを読んだり機械をいじったりするのが好きなものです。記憶力もいい。でも、歳をとってくるとだんだんそれが嫌いになりますし、やっとの思いで覚えた使用法がすぐご破算になってしまうと、「もういやだ」という気になりますよ。もうギブアップです。それでも新しいものはどんどん出てくる。早く新幹線から降りないと、なんとかっていう人だけが、お金持ちになっていくわけですね(笑)。これはもう立派な病気です。こういういき方とはちがう路線はないものだろうか。私が言っているローカル線というのは、そういう考え方に基づいています。縁起の考えで健康な社会を創っていくやり方です。
 どういうことかというと、まずは皆さんそれぞれが、自分のやりたいことを、気の合う同士で一緒に共創する駅を創るのです。それぞれが駅員になりましょうということです。ですから、まずはその駅、その駅でやることはいろいろさまざまですし、また、やっていることが異なって多様性があるほうがいい。つぎに、そのような駅をつないでいく。つなぐ時には、内的な世界が関わってきます。自分たちの内的な世界が開かなければ、他の世界と繋がることはできないんです。興味が出てくると、互いにのぞきにいく。お互いに行き来できるような関係にしましょう、というように互いの結びつきを下からつくっていくネットワークの形成。これがローカル線方式です。
 ローカル線方式はビジネス中心ではなく、生活が基なんです。旅に出て人や駅に出会うことこそがローカル線に乗る目的なのですから、そこに新幹線方式のコンピュータをどんどん入れてしまったら、結局おなじことのくり返しで、生活の場は壊れてしまいます。それなら我々は、どうコンピュータと関わり合えばよいのか。コンピュータは不要とつっぱねるんではなしに、新しいコンピュータを考えていってはどうでしょうか。
 ライカというクラシックカメラがありますね。一度買えば一生もの。何十年経っても使用できる。しかも撮れた写真は、一目でよい写真だとわかる。機械そのものがよくできていて、何十年前のものでも、マニュアルなしでも修理ができます。こういう道具はいいですね。修理を前提としていつまでも使うことができるコンピュータと、そのコンピュータをいつまでも使うことができる社会とは、どんな社会でしょうか。皆でソフトも共有する。そういうことになったら、だれかさんだけがお金持ちで他は負けということにはならないですね。そうしたいき方ができる社会のほうが、すこし不便でもいいと思う人も、だんだん増えてくるのじゃないでしょうか。
 私が皆さんにおうかがいしたいのは、ローカル線の方式でこのような社会を創っていくにはどうすればよいか、ということです。こうしたローカル線でやっていくために、最低限満足させなければならない条件はなんでしょうか。いまからそれを具体的に考えてみないといけません。
 ワープロぐらいやりたいな、コンピュータだったら、ちょっとした計算はやっぱりできないといかんな、とか。しかし、考えてみると、そんなにすごい機能は必要ないのではないでしょうか。どうしても困ったことが起きる場合には、じゃあ新幹線のほうでやって下さいと、お任せしてもいいわけです。
 我々が生活するということ、生きるということを基にして創っていく、こうした縁起的なネットワーク社会社会はどのように設計すればよいのか。21世紀を迎えようとしている現在、これはひじょうに大事な問題だと思われませんか? いまのところまだ設計図もできていません。日本は、これからもあいかわらず膨大な予算を投入して新幹線路線を突き進めていこうとしています。しかしその1パーセントでもローカル路線にかけようとしているかというと、かけようとしていない。じやあ0・1パーセントをかけようとしているか、かけようとしていない。ほとんどかける予定がないという状況ですね。これはやっぱり、なんとしても私たちが私たちの問題としてやらなければならない。
 それは、これが自分たちだけの問題だと思つてはならないからです。これは次の世代に関わってくる問題だから、私たちに責任のある問題であり、私たちが始めなければならない問題です。だから私たちは、バラバラに考え、バラバラに働くのをやめて、めいめいがローカル線のステーションになって、その駅と駅をローカル線でつないでいこうではありませんか。いいものが出てくれば、精神的にも高揚し、自分の知力も伸ばしていくことができる。そういう集まりを創りたい。これが縁起ということではないでしょうか。そういう集まりがほんとうにできるかどうか、どのように展開していくかは皆さんのお考え次第で決まってきます。さしあたっては、仮に、この集まりの名前を「場のアカデミー」と呼んでおきたいと思います。
 この「場のアカデミー」で、それぞれが駅をつくっていくことは別として、私は二つのことをやってみたいと思います。一つは、学習会。これはやっぱり、お互いに学習しないと前進しません。そのために、この冊子『と共創』をテキストにできるのではないかと考えています。この冊子には、私が考えていることが書いてあります。この冊子に書ききれていないこともありますが、しかし、ここにしか書いてないというものも多いと思っています。どういう理由で、ここにしか書いてないものが多いかというと、場の哲学に関する本は、西田幾多郎全集をはじめほかにも優れたものがあるわけですね。しかし、その哲学を現実にどう使って、文明や社会をつくっていくかという理論はどこにも書いてありません。私は、「現実に使う」ということを、つねに頭に置いてこの冊子を書いています。
だから間違っている部分もあるかもしれませんが、皆さんとともに勉強していくうえで参考になると思います。ただ、私がなにを考えたかは、言葉だけでは伝わらないところがあるんです。それで、やっぱりみんなで顔を合わせる場をつくらなければならないなと思っています。              
 この場と共創の学習会の場では、また、皆さんが身をもって体験されたことをいろいろな形でお話ししていただきたいとも思っています。つまり、身体的な学習という意味です。頭の中にためた知識や理屈だけで、ああわかつたと言ってすませるものではないのです。
 それからもう一つ、研究会もやってみたいと思っています。さきほど言いましたように、お一人お一人が当事者として、21世紀の日本の社会をどう創っていくかを、個々の現実の問題に即して研究していく。また、この研究会を通じて、場所的知力を皆で協力して向上させていくことができたら、さらにまた、それがそれぞれの創造力を高めることにつながつていくとすばらしいと思っているんです。新しい社会を創っていくために、そこに必要になる創造力を高めることを目指して、内側の世界をどう開発していくか。そういう実賎的研究ですね。
 できれば教育の問題にも私たちの研究をつなげていきたいですね。これは、いまの学校で教えている知識中心の教育じゃなくて、我々が我々自身を一生教育していくことを考えるわけです。学生さんや若い企業人にもどんどん入っていただきたい。我々の知のベースは、いわゆる知識じゃないですよ。それは心なんです。知識もたいせつだし、切り捨ててはいけません。しかし、さきほども申しましたように、人間として、新しい社会をどう創っていくかということを、共に考え、共に学ぶ場をつくってみようということですね。
 若い方がいっしょにおられることで、我々も、大きな活動エネルギーをいただくわけですし、他方で高齢の人々も心のたいせつさを若い人にお伝えして、その心を創造の形で社会に表現していくことを共に考えたい。それも、活字を通じて伝えるのではありません。直に伝える。これはすばらしいことです。互いに、一種の生涯教育ということになります。
 我々がこれから新しい日本を創っていくうえで、共創という概念、共創によって共に学び、共に心を育てることができる人間関係がひじょうにたいせつになってきます。それは、ひいては新しい経営のあり方にもつながっていきます。人々が内側に目を向けるようになる経営こそ、場所的エネルギーが出る経営です。そして、それをきちんとした経営論として社会に向けて発信していく。これが場所的経営論ということになります。場を活用する経営、場からエネルギーを得て、働いている人々の精神的な創造エネルギーを高め、企業としても元気になっていく、ということだと思いますね。
 それからもう一つ、自他非分離技術というものも研究してみたいですね。コミュニケーションでも、内側の暗在的な世界を、お互いに直接伝えることができるようなコミュニケーションを考えて提案していく。現実にそういう心のコミュニケーションをモノづくりにつなげていく技術を提案していくのです。たとえばさきほど触れましたが、皆が共有でき、リサイクルできるコンピュータとはどういうものであるか、こういうこともちゃんと内側の世界につながる技術として具体的に考えていこうという考えです。これからの技術は、外側の世界を対象にした20世紀的な自他分離技術とは違ったものにならなければいけません。コンピュータが生活の中に入ってきて、かえって老人や障害のある人々が生活しにくくなるということでは困るのです。だれもが生活の中で使え、しかもリサイクルできる。そういう方向の技術が必要となっているのではないか。内側の世界のはたらきである暗在知をもっと活用した技術、それがつまり自他非分離技術です。
 それから、これは実践として、生活ベースの活動を広く全国的に展開していくためにローカル線の駅を創る共創を実賎してみたい。
たとえば、関東というエリアにいくつかできてもいいわけですし、それから、北海道にも、東北にも、中部にも、関西にも、四国、九州にもたくさん創っていただく。すると、全国に広がったローカル線の駅のそれぞれから、創造のエネルギーが全国に発信されていくことになるんじゃないか。それらの駅では高齢者が自立していつまでも働けるような形を創らないといけない。もちろん若い人中心の駅があってもいい。だけどたいせつなことは、高齢者が若い人々に食わせてもらうという考えを捨てることです。そうしたら、もうローカル線の活動しかないんじゃないですか。
 私がさらに狙っているのは、こうした各地のさまざまな駅をつないで、リサイクル的経済の概念を育てていくことです。たとえばライカというカメラはリサイクルできるんです。たった1台のライカが何人の人の手にわたって使い続けられていくでしょう。何代にわたっても使えるわけですね。そんなふうに、人が使ったものを自分がまた使うっていうやり方が社会に広がっていけば、自分を囲って、その中で占有するという考えから共有という考えに自然に移っていけるのではないでしょうか。金を出して買うけれども、それをまた売るわけです。そこで支払われているものは、使用料ということになるわけですね。こういう経済は「生きる」ということがあって、それを豊かにするはたらきなのです。
 いろいろ挙げてきたように、ものづくりにつながる新しい方向性の技術を考えていく。そして私たちが一緒に考えたことを本にして出版し、広めていくこと、これも「場のアカデミー」の研究活動です。今日は、以上のようなご提案を皆さんにさせていただいて、さて皆さんはこれをどう受け止めてくださるかお考えをうかがう、そのための会です。
 もしも「場のアカデミー」を創るとすれば、10月の終わりとか11月の初めに発足させたいと思っております。それまでに皆さんのお知恵を充分吸収させていただきたい。それから、この冊子をどういうふうにつくっていくかもお考えいただきたい。
 このごろ感じるのですが、ほんとうにこういう方向に一歩足を踏み出しているのは最近の芸術、ア←トのようですね。自他非分離的アート。自他非分離的な状態で、作者と、その作家の作品を観る人が、自他非分離的に場を共有することによって、精神的な活動のエネルギーが高まるというようなアートが模索されているようです。これも自他非分離技術にとってひじょうに参考になりますね。私たちが考えようとしている技術は、それ自体が、自他非分離技術と言ってよいのかもしれないと私は思っています。
 じゃあ今日は、だいぶ長くなりましたので、このあたりで、終わらせていただきたいと思います。どうも有難うございました。

この講演録は1999年8月27日、日本プレスセンタービルでの第1回「場のアカデミー」で行われた基調講演を元に清水博先生が加筆修正して作成されました。この講演録は『場と共創』第3号(1999年12 月15日発行)に掲載されたものです。

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