どうすれば企業風土は変わっていくのか。
企業変革のプロデュサーとしての勉強を組織を超えて行う

いま企業には変革が求められているが、その変革を起こすプロデューサーとしての勉強をしていこうと、企業の教育担当者、経営企画担当者、経営コンサルタントなどでつくっている私的な研究会がある。その活動をリポートした。「人材教育、平成12年7月号に掲載」

早朝のトイレ掃除

 今年1月28日のことだったが、箱根湯本温泉の公園で、早朝からトイレ掃除に精を出す一行があった。「風土改革プロデュース研究会」の一行20数名がそれで、年齢は30代から60代までさまざま。1月末の早朝7時、箱根湯本は厳冬の真っただなかにあり、吐く息は白く、肌を刺すような寒さが五体を襲う。会社へ出勤をするサラーリマン、犬を連れて散歩する老人が何事が起こったかと、怪訝な表情で一行を見つめる。厚手のジャンパーに長靴、首にはタオルを巻き、手に手に箒やバケツ、ブラシ、ぞうきんなどの用具をもって、掃除に取りかかる。なかに1人、あたかも自分の庭、トイレであるかのように、脇目も振らず手際よくパッパッと掃除を進めていく高齢者がいる。
「便器の汚れ落としにはサンドペーパーがいいですよ」「溝のなかの落ち葉はまた堆肥として元へ戻すので、吸い殻と仕分けした方がいいですね」とアドバイスを与える。だれあろうその高齢者とは、イエローハット相談役の鍵山秀三郎氏である。鍵山氏については本誌巻頭インタビューにも登場していただいているが、「日本を美しくする会」の会長として、清掃運動を日本国中、いや海外にまで広めている人である。そんなことからマスコミのなかには、掃除教の教祖、掃除道の達人などと呼称するムキもある。なぜここに鍵山氏がいるのかについては追々説明をしていくが、掃除に命を賭けてきた人だけに、その動きにはムダがない。「何ですか」と出勤前のサラリーマンは質問する。「ボランティアというやつですか」、散歩の老人は不思議そうに足を止める。ごみや空き缶を拾い、落ち葉を掃き集め、公園をきれいに清掃する者、トイレの便器に手を入れきれいに磨き上げる者、床をブラシで洗う者、たちまちにしてトイレは汚れ一つないピカピカの白磁に磨き上げられる。
その間、約1時間。「きれいになったな」「顔が洗えるね」口々にそんなことをいいながら、一行は用具を片付け、満足そうに温泉街の宿へ引き上げていった。「風土改革プロデュース研究会」、こんな研究組織がある。経営コンサルタントと民間企業の教育担当者、経営企画担当者などでつくっている私的な組織で、組織の風土改革を研究している組織である。コンサルタントというのは北村三郎(人と情報の研究所代表)、佐藤修(コンセプトワークショップ)、山内孝三郎(実践の場)、潮崎通康(SHIOZAKI)、三浦和吾郎(創志塾)、寺本明輝(浜銀総合研究所)などで、デンソー、ワイズダム、オリエンタルランド、ミツバ、馬渕建設、ウィズ、関西電力、キャリア開発などの企業から20人ほどが参加している。労働組合からはアサヒビール労働組合中央執行委員長の樋口祐司が参加し、行政からは名古屋市役所人事課の楢崎早百合が個人参加している。
結成されたのが99年3月のことで、3年間にまたがる研究組織でもある。2ヵ月に1度、会員持ち回りで合宿の研究会を開き、各自2ヵ月間の活動報告をするというのが、研究会の進め方である。研究成果は「たこつぼから出ようよ」という小冊子にまとめて報告することにしている。この研究会はコンサルタントが催すビジネスではなく、あくまでも研究組織。当面の費用として15万円を集めたが、この費用がなくなれば、また会費を徴収して運営する方針。企業からの参加者はもちろん会社負担だが、コンサルタントも個人参加者も平等に会費を負担している。研究会の会長で、この研究会の仕掛け人でもある北村氏は、結成の動機を次のように語る。「私はいすゞ自動車時代、10年以上も風土改革を手がけてきたが、志半ばにして終わってしまった感がある。まだまだ勉強したい部分もあり、さらなる追求をしたかったこと。もう一つは21世紀に向けて、日本の大事な部分を占めている企業が、変わっていかなければならないということです。変化を起こすには仕掛け人というか、プロデューサーが必要で、そのプロデューサーとしての勉強を一緒にしていこうということで、この研究会を発足させました」ここで簡単に北村三郎氏のプロフィールを紹介する。彼はいすゞ自動車時代、自らを堂々と「中高年の窓際族」と名乗ったほどの異色な人物で、上司としばしば衝突、揚げ句は左遷の憂き目を味わうといった波乱多きサラリーマン人生を送ってきた。1961年に早稲田大学政経学部を出ていすゞ自動車へ入った彼は、そのサラリーマンとしての前半を会社人間として、猛烈な働きぶりを見せた。販売子会社へ課長として出向したときは、23ヵ月連続してトップの販売成績を上げたこともあるという。30代の後半、同期のトップを切って教育部門の課長になった彼は、いすゞの業績低迷が企業風土にあると感じ、風土改革運動を開始する。ところがあることから社長に次ぐ実力をもつ役員に睨まれ、出世街道からはずされる。その後、補給部品部門や海外営業部門などを転々とした後、海外部品部長になった。そのころ、いすゞ自動車はすでに導入していたTQC活動でデミング賞獲得がその目標に据えられた。しかし北村氏はTQC活動やデミング賞受審そのものに疑問を感じてくる。工場の現場では生産の遅れ、品質トラブルが起こっているのにもかかわらず、デミング賞受審が優先され、問題は隠蔽され先送りされる。また辻棲を合わせた形だけの書類がつくられるなど、いろいろな問題点も目立つようになった。そこで北村氏が考えたのが、TQC活動やデミング賞受審より前に、いすゞという会社の風土を変える必要性だった。TQC活動を潰すことを密かに決意した北村は、風土改革の必要性をトップに進言し、賛同してくれた仲間数人とその改革運動を始めることになる。トップの決断によりTQC活動を撤退したあと、風土改革運動を推進した北村氏に対する社内の風当たりが強かったことは言うまでもない。それを支えたのは彼の人生観だった。海外部品部長からIJS(事務合理化)推進室長に就任した52歳のとき、彼は4週間のリフレッシュ休暇制度を使い、学生時代の旧友を訪ねる旅をする。その旅のなかで人生を見つめ、己の役割を考えとき、沸き上がってきたのが出世栄達に汲々とする人生ではなく、何か世のため人のために役立つ使命感をもった人生だった。まやかしのデミング賞ではなく、社風そのものを変えていく風土改革に手を染める決心をしたのはその時である。いすゞ能力センターの社長となった北村氏は、風土改革のための「l00人委員会」を組織、自分もその世話人の1人となっていすゞの風土改革を進めていく。そして自ら窓際と呼ぶ管理部門担当付部長として風土改革を進めた。96年12月、35年間勤めたいすゞ自動車を定年退職した。「風土改革というのは社員のものの考え方が大事で、特に経営幹部とミドルが右肩上がりの時代に染み込んでしまった価値観や考え方を変えていかねばならない。風土改革についての理論はあるが、実践者は少ない。実践者として自分の失敗も含めお役に立つのではないかと思い、研究会を企画した」と北村氏は言う。いすゞ時代の仲間、山内孝三郎氏や三浦和吾朗氏に呼びかけ、彼らの人脈も借りて研究会をスタートさせた。

CE(顧客感動)から学ぶ風土改革

 99年3月の第1回目の研究会場が「セミナーハウス湘南台」。いすゞ自動車の研修所で、会社組織となっている。昨年まで三浦和吾朗氏が所長を務めていた研修所でもある。別名、"花のセミナーハウス"と呼ばれ、受付カウンターや廊下、応接室、研修室、食堂など至る所に花が飾られ、評判の研修所である。花は清掃を担当するパートの女性たちが自主的に生けているもので、そのセミナーハウスの人気の秘密やパート女性たちの花いっぱい運動の心を探ろうというのが、会場に選んだ理由である。「よく企業のCS(CustomerSatisfaction:顧客満足)が話題になりますが、いまやCSは当たり前。これからの時代はCE(CustomerEnthusiasm:顧客感動)でなければなりません。顧客の期待を超えたものを提供しなければ、競争を勝ち抜いていけない。セミナーハウスにはそのヒントがある」と北村氏は言う。顧客の期待を超えたサービスを考え提供することは、まさにそれは風土改革活動そのものである。
99年5月、メンバーとして研究会にも参加しているオリエンタルランドを、第2回の研究会場に選んだ。まさにここで学んだのもCSならぬCEで、顧客の期待を超えたサービスが展開されている姿である。それはインラインスケートといわれるもの。これこそはマニュアル王国であるディズニーランドのなかで、マニュアルに記されていない、顧客の期待を超えたサービス行為ではないかというのが、北村氏の見方だ。ディズニーランドには広い場内をエリアごとに区切って、清掃を担当する係であるスイーパーがいる。彼らは担当エリアにゴミが出ればサッーと近寄って片付ける。ある時、ある社員がその係にスケートを履かせる提案をした。社内ではマニュアルにもないことであり、どのような問題が起こるか予測がつかないこともあり、反対意見が多かった。約半年近く議論が行われたというが、結局、トップの了解に漕ぎ着けスケーター清掃員、すなわちインラインスケートの導入に踏み切った。これが大好評を博した。「格好いい」「一緒に写真を撮って欲しい」こんな声が場内には満ちあふれ、いまやディズニーランドの一種の名物にもなっているという。スケーターもまた大いなるやり甲斐を感じている。どういうプロセスでインラインスケートが導入されたか、それを勉強したのがオリエンタルランドでの研究会であった。「多くの会社では新しいことを導入することに対して抵抗が多い。新しいことはリスクが伴うわけですから。しかしオリエンタルランドでは、やらないことをいろいろ理由づけするよりも、いいことならまずやってみる。それがインラインスケートで成功を見たわけですが、それも立派な風土改革の一つだと思うのです。オリエンタルランドのケースを自分の会社に、あるいは自分に置き換えて考えてみた時どうなるか。そんなことを勉強した」と北村氏は言う。
99年7月の第3回目の研究会では、山中湖にある知的障害者(児)の施設「富士聖ヨハネ学園」を研究会場に選んだ。多様なものの見方やコミニュケーションを、知的障害者(児)との交流のなかから学ぶことが目的だった。

掃除哲学の心、気づきを学ぶ

 その後、4回目がデンソー、5回目がミツバと、在籍メンバーの企業を研究会場に選び、そして6回目の2000年1月、研究対象となったのが自動車用品の卸・小売りを手がけるイエローハットである。創業者である鍵山秀三郎氏から、その掃除哲学、気づきを学ぶのが狙いである。鍵山氏は、戦後、疎開先の岐阜から単身上京し自動車用品を扱う会社へ就職する。社長の公私混同、荒んだ社風に嫌気が差し、「社員の心が荒まないような理想的な会社をつくりたい」と、8年ほど勤めた後の1961年、ローヤル(後にイエローハットに社名変更)を設立する。社員時代から掃除に身を入れていた鍵山氏だったが、独立後はそれにも増して事務所やその周辺の掃除を行った。以来、40年近く、サラリーマン時代から数えれば47年間、毎朝6時から掃除をし続けている。いまその掃除道が世の知られるところとなり、企業の社員教育はもとより青少年の情操教育にも活用されるようになっている。さらに言えば鍵山氏が掃除活動のなかから得た人生哲学が、多くの人の心を引き付け、人生の師としてその教えを乞う門下生も増えている。「凡事徹底」とは彼の人生観を一言で表した言葉だが、「10年偉大なり、20年畏るべし、30年にして歴史なる」とは彼がよく愛用する言葉でもある。研究会の一行はまず1月27日、富士市にあるイエローハット研修所を見学した。ゼネコンの見積りを一銭も値切ることなく約20億円をかけて建設をしたという立派な研修所で、行き届いたトイレの清掃と用具、ゴミの分別、磨き上げられた車がいかにもイエローハットらしさを感じさせた。洗面所には使用後のタオルさえ広げて置く場所があり、駐車場には洗車用のラインが引いてある徹底ぶり。他人のことを慮り小さなことをおろそかにしない鍵山氏の哲学が、研修所の隅々まで浸透していることを思わせた。夜は場所を箱根湯本のイエローハット保養所に変え、鍵山氏を囲んでの懇談会が行われた。メンバー一人ひとりが悩みや問題、あるいは質問を鍵山氏にぶつけ、それに答えてもらう形での懇談だった。「富士研修所を見て全く手抜きのない、見事な建築ぶりに驚いた」と専門家の立場から馬淵建設の飯田祐吉氏が感想を言えば、鍵山氏は「見積りを一銭たりとも値切らない代わりに、見積りにふさわしい仕事をして欲しいとお願いをした。よく建物ができたあとで、あちこち手直しをすることほどムダなことはない。ムダをしないためにも見積り通り予算を立て、業者の責任に任せた」と言う。「私たちは日ごろ、お客さんのためといいながら、実は会社の都合を優先させている。そんなことからよく悩むことがある」との悩み事に対しては、「理想と現実、社会性と経済性、世の中はすべて相反する要素をもっている。世の中はその連続と言っていい。その相反する要素をどう両立させていくか、両立させる努力そのものが仕事なんです」というのが鍵山氏のアドバイス。「鍵山流の人の真贋を見分ける法は?」「人を見る眼については私も自信がない。これまでどれだけの人に騙され裏切られてきたかが、それを物語っている。ただ一つ物差しにしているのは、言うこととやることの乖離ですね。乖離している人はどんな高名でも有能でも価値を認めない」
このような懇談が3時間も続いた。金言、格言を引用しながらの滋味豊かなコメント、アドバイスは、人生の達人そのものの姿を感じさせた。そして翌日は近くの公園での早朝トイレ掃除となったわけである。社風とは何か。どのような社風がいい社風なのか。どうすれば企業風土は変わっていくのか。漠として掴みにくいテーマだけに、自分のものにするには時間がかかる。北村氏は言う。「社風というのは社員の意識、行動の集合体で、創業者の思想、業態、歴史、いろいろな要素が寄り集まって形成される。その社風は幹部社員や社員の意識が変わらなければ変わらない。人が変われば風土は変わる。しかし人の意識を変えることはできない。自分が変わるしかない。その変わることを支援するのがプロデューサーです」
そのプロデューサーをつくっているのがこの研究会である。(ジャーナリスト宮本淳夫)

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