サラリーマンよ、会社を創ろう!

1 青春の傷あと     退学そして定時制高校で

 私には退学処分を受けて定時制高校に通ったという苦い過去があります。その話をするようになったのは、ここ1、2年のことで、昔はあまり話しませんでした。やはり会社には減点主義というものがあって、会社員でいるうちは、自分の弱みをみせるとマイナスになるんじゃないかという強迫観念があります。退学になったなんてことは決して名誉な話じゃなく、要するにダメ人間の話ですから、ずっと黙って伏せていました。

 それも含めて、少し私の育ちの話をすると、私の父は小学校を中退して、石川県の山奥から東京に出てきました。明治の話です。そして、米屋の小僧として一生懸命に働いてお金を貯め、努力の末に会社を創りました。会社を創ったのが戦前のこと、終戦後には日本橋や浅草に土地を買って一代でかなりの資産をつくりました。私はそういう環境に育ったわけです。

 家は飲食店をしていて、家族もその仕事をしています。私も当然、家業を継ぐということで、中学生の頃から小僧として働きました。毎日、学校から帰ってきたら、厨房に入って皿洗いをしろ、朝は5時起きで暖房のボイラーを焚けと父の命令でやらされます。そういうことを修業していたわけです。しかし、私は家の仕事を継ぎませんでした。

 私は5人兄弟の末っ子で、兄や姉たちはみんな会社を経営しています。さらに、私の子供も含めて男3人、女9人と、創業者の父からみると12人の孫がいるのですが、そのうちの6人がやはり会社を経営しています。そういう環境の中で、まあ一人ぐらいはサラリーマンがいてもいいんじゃないかということで、一人だけ、私がいすゞ自動車に勤めることになりました。そして、サラリーマンになった以上、サラリーマンらしく管理社会の中で生きていかなきゃいけないと思い、これまで自分を会社という鋳型にはめてやってきたわけです。もっとも定年後の今、こうして自分が会社を創ることになると、結局、兄弟みんなが会社を経営することになってしまったことになります。

 それはさておき、私が退学処分になるような不祥事を起こしたのは高校3年の時です。 東京・日本橋の都立高校に通っていた私は、なぜか高校3年に番長というものになり、その年の9月の修学旅行で最初の事件が起きました。

 修学旅行先の京都でのこと。どういうわけか女子生徒が私に「一回、祇園に行って舞妓さんを見てみたい」と言い出したのです。私はこっそり持ち出したお金を少し持っていたものだから、「いいよ、見せてやるよ」と太っ腹なところをみせ、子分と7人ぐらいの女子生徒を連れて祇園に行きました。でも、祇園のお茶屋なんて高校生が入れるところじゃない。しかたないから、近くにあった一杯飲み屋に入ってみんなでお酒を飲みました。そしたら調子にのって飲み過ぎてしまって、私と女の子3人がひっくり返って、タクシーで旅館にかつぎ込まれたのです。もう大騒ぎになりました。

 帰ってからは職員会議に呼ばれて「なんで酒なんか飲んだんだ」「高校生のくせに」とお説教されて、全員、停学1週間の処分。職員室の前の廊下に『次の者、停学1週間を命ずる』とズラズラーっと名前が張り出されました。

 それからまもなくの10月、今度は隣の高校と出入りがありました。要するに殴り込みです。そこで、私がボクシングの選手だったこともあってケガ人が出てしまい、再び職員会議で大問題になりました。先生たちの間では「あいつには前科がある」とか、「でも、退学させると人生がめちゃくちゃになる」とか、ずいぶん議論があったようですが、結局、私は退学処分になりました。といっても、会社でもそうですけど、懲戒解雇となるとその人の経歴に傷がつくから依願退職というシステムがある。諭旨解雇というんですが、それと同じで、その時も先生が私の家に来て「自分で退学届けを書きなさい」と、自発的に退学するかたちにしたわけです。

 高校3年の10月ですから、あと5か月いれば卒業できたのに。本当に絶望的な気持でした。でも親身に助言してくれた人もいて、翌年、私は定時制高校に入り直したのです。 定時制高校というのは昼間と違って卒業に4年かかります。私の場合、夜間に4年で入れれば1年で卒業できたんですが、単位の関係で3年から入り直すことになって、通算5年間かけて高校を卒業することになりました。

 その頃というと昭和20年代で、当時の定時制高校の学生というのは貧しくて昼間の学校に行けない人がほとんどです。女性だと看護婦さんをめざすとか、タイピストや給仕をやりながらとか、いろんな人がいました。昼間の学生というのは、のほほんとしていますけど、夜間の学生は努力家で本当に勉強熱心です。ああ、こういう人たちもいるんだなと目を開かされて、私の人生観は大きく変わりました。そこで2年間を過ごすなかで、多感な18、19の私が〈現場は大事だな〉〈現場の人たちと目線を合わせてやっていかなきゃいけないな〉と感じたことを今でも覚えています。

 そして、その気持は社会人になっても引き継がれてきたわけですが、何か、すべて順調にいってるのではなくて、過去につらい思いをした、挫折を味わったことが私にとっての財産になっているのではないかと思います。そういう心の傷やしみは誰にもあって、密かに自分の内に秘めている。でも、それを乗り越えた時、自分にすごい実力や自信がつくものだと思うから、それをいい方向に使っていけたらなと思っています。

2 出会いに学ぶこと     めまぐるしく変わる環境のなかで

 私は「自動車が好きだから、どうしても」という気持で自動車メーカーに入ったわけではありません。本来は新聞記者になりたかったんです。ところが新聞社は何回受けても落ちてしまって、たまたま友達が勧めたいすゞ自動車に入ることになったのです。おもしろいことに、最初に配属されたのは人事課の教育係でした。

 昔の私を知る友達はみんな驚きましたね。「北村みたいな悪ガキがなんで人事課なの」と。確かに私は悪かったけど、おやじ狩りのようなことはしない。変な言い方だけど、まじめで明るく悪かった。で、ともかく会社に入った以上、まじめにやらなきゃいけないと一生懸命勉強しました。ところが根が根ですから、しばらくすると「北村っていうのは言うこと聞かない」と上役に睨まれて、2年ぐらいしたら異動です。その後もあちこちに動いて、いろんなところへ行きました。

 一時、2年半ばかり労働組合の執行委員をやったこともあります。その仕事を通じては、ひじょうに大きなキャリアを積むことができました。

 労働組合というのは、上司がいて命令されて仕事をするのではなくて、一人ひとりが責任者です。20代で全国自動車労働組合連合会の調査副部長といったポストに就いた私は、傘下のいろんな労働組合の幹部の人たちとやりとりをしました。たとえば、壇上で説明をする若造の私に、ケインズ理論やマルクス理論に精通した労働組合のプロみたいな人が矢継ぎ早に質問を浴びせてきます。我われの立場なんかをガンガン追及してくる。そうすると、学生時代に麻雀ばかりやっていた私だから知識がなくて答えられない。ものすごく苦労したというか、本当に恥ずかしい思いをして、これはもっと勉強しなきゃいかんなと思うようになりました。

 そこで一念発起して通ったのが本郷の東京大学です。といっても入学したわけではなくて、仕事が終わってから夜間の労働講座に半年通い、当時の有名な教授陣から労働経済とか賃金理論とか社会政策とか、社会人になって初めて勉強しました。きっかけはともあれ、必要にかられて真剣に学んだその半年間があって、私は執行委員の仕事を全うできたのではないかと思います。いくつになっても勉強は必要だと痛切に感じたその経験は、自分にとっての貴重な財産になりました。

 財産といえば、もう一つあります。つい最近、労働組合のOB会があって、あの時、私を勉強に向かわせるきっかけになった元トヨタ自販の書記長のSさんも来ていました。それこそ何十年ぶりの再会です。「あの時の質問には参った」「そんなこともあったかな。懐かしいねえ」というやりとりになって、後日、再びお会いして、興味深いトヨタ時代の話などを聞かせていただくことができました。

 そういう過去のいろんな出会いを大事にして人脈が広がっていくということは、個人にとってものすごい財産になります。ことに15回も部署を変わった私には、人より少し多くの出会いがあったかもしれません。

 そのなかで、とくに印象に残っているのはアフリカ担当時代でしょうか。南アフリカ、ケニヤ、ザイールと3つのGMプラントを担当してノックダウン輸出に関わっていた頃、私はよくアフリカに長期の出張をしました。アフリカといっても、たとえばザイールの首都のキンシャサには交通ルールも信号もないというように西欧文明的な秩序がありません。そんな国の山奥の鉱山にトラックを売りに行ったりするのは、まさにカオス状態の中のビジネスです。頼りになるのは自分だけ。汗をかきながら現地で人種の全く違う黒人の人たちと仕事をする一方で、まだ南アフリカ共和国などはアパルトヘイトの時代ですから人種問題を肌で感じて、ああ、こういう世界もあるのかと大きなカルチャーショックを受けました。

 その後、海外部品部長になると、さらにタイ、マレーシア、中国をはじめとするアジアやヨーロッパの人たちとつきあうことになり、出会いは世界に広がりました。

 海外部品での私は主にプライス交渉を担当していましたから、取引先のお客様は部品コストを下げて欲しいと遠路やってくる。ところが、私のほうはなかなか要望に応えられないことが多い。ビジネスですから、どうしても交渉の場では相手の意向を飲めないこともあるわけですが、仕事とはいえ顔つき合わせて話をするのも何かの縁ですから、一杯飲むだけでもつきあおうかと、よく海外から来たお客さんを六本木に連れて行って酒を飲んだものです。先日も、そういう縁で知り合ったベルギーのアントワープにあるGMの部品部門の人がビジネスで日本に来ると知らせてきたので、家族と一緒にそのご夫婦に会いました。部品を離れてずいぶんたちますが、いまだにそういうつきあいが続いています。

 そういうプラスアルファのつきあいの中で培われた人脈も少なくありません。外国人とのつきあいは、仕事に役立つばかりでなく、自分の人生の視野を広げてくれました。

同時に、会社という限定的な世界で生きているようにみえて、じつはサラリーマンには、会社を通じて、会社を越えたつきあいを膨らませることができるチャンスがあることも分かったのです。

3 タコ壺から足を踏み出す     50過ぎのリフレッシュ休暇で

 50歳を過ぎた頃です。ちょうど会社はTQCのデミング賞に挑戦していて、私は、その一貫として事務の合理化をはかる目的で設置されたIJS推進室という部署に異動になりました。でも私は嫌で嫌でしようがない。会社にとって必要かもしれないけれど、とにかく推進室の仕事をやりたくなくて、人事に外してくれと直訴したりしました。

 会社にも行きたくなかった。何がそんなに嫌だったのかというと、まずいろんな資料を作らされる。そしてTQCの発表会がある。なんで50にもなって、こんなことをしなきゃいけないのか。こんなことしたって会社は儲からないのにと思いながら過ごす、とてもつらい時期でした。

「3R研修」というリフレッシュ休暇があると人事から聞かされたのはその頃です。

当時 130人ぐらいの部長がいたと思いますが、部長を対象としたその研修は、どんなふうに時間を使ってもいい、とにかく2週間の休暇をとって何かをやれというものでした。会社に行くのが嫌だった私は即座に飛びついて、プランを二つ考えました。そして結局、実行したのが小学校、中学校、高校時代の友達に会うというプランです。

 会社の縁、社縁というのは定年になると切れることが多いといいますし、年をとると利害関係のない友達というのがすごく大事になってきます。考えてみると、昔、一緒に勉強した学生時代の友達には長い間会ってないし、会うなら皆が現役の今のうちだと思い決心したわけです。

 早速、訪ねたい友達の名簿づくりを始めると、中学校と二つの高校、大学時代の友達だけでなく、労働組合の人や取引先で思い出に残っている人と、会社に入ってから知り合った人も加えることになって 100人くらいがリストアップされました。その時点で、どうみても2週間では時間が足りないから、もう2週間ほど休暇を追加してもらい、できるだけ多くの友達を訪ねることにしました。遠方の人は、北は仙台、西は姫路、近くでも、まとめて何人か集めるようなことはしないで一人ひとりに会いました。最初から私は職場で会いたい、今の仕事の話が聞きたいと思っていましたから訪ねて行くのは会社です。一日だいたい3、4人のペースで、最終的に66人に会うことができました。

 自分の昔を知る懐かしい面々に会うのは格別に感慨深いものですが、それ以上に大きな発見だったのは、結局「会社ってタコ壺なんだな」ということです。

 会社訪問をした66人の仕事は、ファッションだったり商社だったり食品関係だったり、学校の先生もいれば新聞記者や共産党の幹部もいます。みんな業種もいろいろで、いろんな仕事をしている。それをずっと見ていくと、世の中が変化している、どんどん動いているのが手に取るように分かります。たとえば石油業界の人から「石油は今こうなっている」という話ひとつを聞いても、自分が今いる世界とは全く違う感覚がある。それぞれの業種業界に自分の知らない話がたくさんあって、しかもそれはひじょうな速さで変化している。その当時で、私はいすゞ自動車という会社に30年近くいたわけですが「一つの世界に入り込んでいるなあ」と痛切に感じました。

 広く会社をとりまく環境をみると、グローバリゼーションのような変化の風がビュービューと吹いている。しかし、会社の中はといえば自己完結型で、その中の秩序に従っていれば無風状態でいられる。ああ、タコ壺だなあ、こんなとこに入ってていいのかなと、すごく危機感をもちました。

 そう感じて、ほかの会社をいろいろ調べてみると、ほとんどの会社、各部門がみんなタコ壺に入っている。会社自体が一つのタコ壺なんだけど、さらに部門も塹壕を掘って潜っている。タコ壺から、さらにミミズ穴が掘られているわけです。それを見て、もし自分もそうだとしたら、とにかくミミズ穴からタコ壺に出なきゃいけない。そして、定年までの10年なんてあっという間だから、早くタコ壺から抜け出さなきゃいけないと思い、いろんなことを始めたわけです。

 大学の同窓会の終身幹事になったのも、それがきっかけです。

 旧友たちを訪ねた時、もう何十年も同窓会をやっていないこともあって、かつての語学クラスの仲間で同期会をやらないかという声がけっこうありました。ところが、やりたいとは思っているけど、住所を調べたり手紙を書いたり出欠のとりまとめをしたりがたいへんだから、幹事をやろうという人がいない。それなら私が引き受けようかと幹事をやることにしました。同窓生64人のうち5人ほど行方不明者がいましたが、何とか住所を調べて連絡がついて、以来、毎年1回、9月の第2土曜日を同窓会の日として集まっています。始めたのが平成元年ですから、もう8回を数えて、毎年だいたい20人ぐらい集まります。最高に集まった年で44人でした。

 不思議なものです。昔の友達を訪ねて回ったら、同窓会をやらないかと声が上がって、よし俺がやろうかと行動を起こしたら、40何人もの人間が集まってくる。集まったみんなも、私が努力して場をつくっていることに感謝して喜んでくれる。世の中って、そうやって変化するんですね。何かを企画して自分で動いてぶつかっていくと、必ず何かが変わる。そして喜んでくれる人が必ずいる。やはり、自分が動いて何かをやらねばだめなんだということを、やってみてつくづく実感しました。

 66人の友達を訪ねたあの4週間は私の意識を大きく変えました。行動することの大切さを発見した私は、タコ壺から広い世界へ踏み出したのです。

4 会社を創る     商品とお客様が商売の基本

 今まで話したことは、会社を創るということと無関係ではありません。会社を創るにしても、自分のいろんな挫折や経験やキャリアを土台にしよう、それを生かさなければもったいないというのが私の考え方です。だから、いいところばかり見せるんじゃなくて、恥も含めて北村三郎という物語をお話ししているわけです。

 物語ということでいえば、中身は違っても物語は誰にもあります。人はみな生まれも育ちも経験も違うし、個性も得意技も違う。もちろん人間だから長所も欠点もある。それも含めて、一人ひとりの人生にはその人にしか語れない物語があるものです。少なくとも私の経験では、それを語りながら互いに共感しあって何かを一緒に築いていく、生かして前向きな行動につなげていくことも事業を興すうえで大切なことではないかと思います。

 ここで話を少年時代に戻しますと、実家がレストランや和食の店を経営していたので、私の身近にはコックと板前というプロフェッショナルがいました。一般に、そういう職人さんたちには個性の強い人が多くて、何かあると突然辞めたりする。でも、レストランや和食の店は商品がすべてコックさん、板前さんの腕にかかっていて、その人の料理で商売をしている。人が財産です。だから、父や母は知恵を絞って彼らに長く働いてもらおうと、ずいぶん努力をしていました。それでもチーフコックが辞めてしまった時は、ナンバー2がしばらく代わりをやりますが、やっぱり味は維持できない。一流コックを呼ぶにしても2、3か月はかかりますから、ちょうど先日のアイシン精機の火災の例と同じで製造ラインが止まってしまう。それほど人の確保というのは差し迫った問題のわけです。

 そういうことを通じて、三つ子の魂百までではありませんが、私は子供の頃から商売の基本、事業の基本というものを叩き込まれてきました。私の考え方には、商売をしていた家庭環境の影響が多分にあると思います。そして、その頃、親や兄弟から繰り返し聞かされたのは“商品”と“お客様”、商売はこの二つに絞られるんだよということでした。 商品にはハードもソフトもありますが、とにかく他で売ってないもの、うちにしかないものを作ることが絶対の基本である。右肩上がりのマーケット成長期には物真似でもいいけれど、それが飽和に達した競争社会では同質ではだめ、他にない売り物がなければ生き残っていけないというわけです。だから会社を創る時も、何かユニークな独自性のあるものを築けるかどうか、それが大きなポイントになるかと思います。

 では、それをいかに創造するかというと、人真似ではなく、自分の過去のキャリアから積み上げて生み出すということ。これは自動車メーカーであってもレストランであっても個人の有限会社であっても同じで、まず必要なのは、モノであろうとサービスであろうと起業者の個性が生かされたオリジナル商品をもつことでしょう。

 そして、もう一つはお客様。いくら商品が良くてもお客様がいなければ商売は成り立ちません。いかにお客様を愛するかということです。とくに私が仕込まれたのは、新規の客を広く浅く狙うのではなく、ひいきにしてくれるお得意様を確保する、お得意様をたくさんつくることが大事ということでした。

 そこで私の商売についてですが、現在、私は『人と情報の研究所』という会社を経営しています。でも、旧友を訪ねた50代の初めの頃には会社を創るなんて夢にも思っていなくて、その気になったのは58歳の時でした。

 なりゆきについてふれますと、いすゞ自動車でやっている風土改革について、世話人だった私に話を聞きにくる人もいて、時には講演を頼まれたりするようになりました。それで、自分がやってきたことの何が参考になるのかと思って聞いてみると、考え方がユニークだというんです。「ユニークである」ということは、私の感覚では商品になる可能性があるということで、何となく会社を創ろうかなあと思ったわけです。

 では、お客様はというと、私の場合、ご縁があって直接お会いする機会がもてた、お話しして共感が生まれた方がたとの出会いが基本でしょうか。

 たとえば、私たちはビジネスのうえで頻繁に名刺交換をします。しかし、通常それは儀礼的なもので、すぐどこかにしまってそれっきりです。でも、私の考え方は、名刺をもらうというのはすごい縁だなあと思うから、会社にいる頃からお会いした方には必ずお手紙を書いてきました。“ご縁があって名刺をいただきました。これからも何かの機会におつきあいができますように。私の書いたちょっとしたエッセイがありますから読んでください”と。だいたい私は一日に10人ぐらいの方と名刺交換しますが、半分ぐらいはお返事をいただいて、さらに10人のうち1人ぐらいは、どこかで再びお会いすることがあります。そういうことを2年、3年と続けていくと、けっこうすごい人脈ができるのです。

 もちろん直接、それがお客様に結びつくわけではありませんが、多少、そうやって意識的に時間をかけて外の人脈形成をしておくと、将来のポテンシャル・カスタマーになりやすいかもしれません。それなくして会社を創っても、お客様はすぐにはできない。商品は開発できても、お客様をつくるには2年も3年もかかるから、その間に資本金がなくなる恐れもあります。見方によっては、会社を創るのもよし、創らないのもよしで、会社を創るだけが能じゃない。ただ、仮に定年後にでも何か事業をやりたいと思うなら、基本は人間関係ですから、それを念頭において、日頃からいろんな人とのネットワークをつくる努力は必要だと思います。

 これから日本は老人大国になる。それに対して厚生省は、ゴールドプランと称して特別養護老人ホームとか、養老院をつくったりしています。しかし、そういう保健福祉も大事だけど、それより労働省がもっと頑張って、年を取っても働ける、社会との接点をもち続けられるような状況をつくってくれたらと思います。働いているうちは気持に張りがあるからボケない。元気な老人が増えれば特養ホームに入る時期が遅くなって、高齢者への社会保障費の増大も抑制できるわけだから、もっと高齢者の雇用機会を増やす努力が必要だと思います。

 企業にしても、自分で抱えるのが難しいとしたら、別の会社で60過ぎの元気な人が働ける場をつくる。老人と女性は日本の未活用資産ですから、それをもっと活用すれば、少子化によって減少する労働力を補うこともできるのではないでしょうか。

5 サラリーマンの人生劇場     三幕劇から五幕劇へ

 昔から本を読むのが好きだった私の愛読書の一つに尾崎史郎の『人生劇場』があります。

 映画やテレビドラマにもなったからご存じの方もあるかと思いますが、青成瓢吉という田舎青年が都会の波にもまれながら、波乱万丈の人生をおくって死ぬまでを描いた血沸き肉躍る大河ドラマです。青春編、愛欲編、風雲編、怒濤編と人生の舞台が進行し、最後に死とともに幕が閉じるというドラマチックなストーリーで、私は夢中で読みふけりました。そして、人生というのは、オギャーと生まれて物心がつき、初期の学校教育を受けて集団生活を学ぶ少年期から、心身ともに成長し、思春期を迎えて自分や人生に悩んだりしながら少しずつ大人になっていく青春期までが一幕。社会人になって会社生活に適応し、サラリーマンとして定年を迎えるまでが二幕。会社を離れて再び個人に戻り、あらためて人生を考える定年後の余生が三幕と、そんな三幕劇なのかなと考えていました。その芝居には必ず幕間があり、暗転して舞台装置が変わって、また次の場面へと話が進みます。

 でも、実際に自分が運んできたストーリーをふり返ってみると、それだけではないことに気づきました。一幕と二幕は同じなのですが、二幕から三幕までの間に、もう一つ幕間の変化がある。誰でも会社に入ってサラリーマンとして適応していく時期がありますが、それを経ると会社生活のなかでも“自立”の時期があるのではないかと思うようになりました。

 それは何も会社を離れて独立することではなくて、社員として精神的に自立するという意味です。たとえば、組織のなかで仲間と協力しあって、一つのプロジェクトを立ち上げる、進める。それぞれの夢を追いつつ、皆を巻き込んで目標を達成していく。見方を変えれば、組織のなかに身を置きながら起業するわけです。むろん、すべての人にあてはまるプロセスではないけど、そういう四幕劇の人生を送る人は少なくありません。 私の場合はサラリーマン生活の50歳の時に舞台が変わりました。それまでは、上ばかり見て部下にやらせることも厭わないヒラメ社員でしたから、完全に“いかに組織に適応するか”という物語です。それが50になって、たまたま舞台装置が変わって「適応」から「自立」の物語が始まったわけです。

 これは私見になりますが、自立の転機が訪れた時、次の舞台へと場面転換できるかどうかは、その人がもつ“テーマ”次第と言えるかもしれません。通常、会社に入ってからの配属やローテーションは、自分の意思というより人事異動で行なわれ、そのめぐり合わせで就いた仕事、過去のキャリアをもとに会社も適材適所を考えていきます。そして、個人もまた、そこで蓄積してきた経験を土台に「俺は、これでいこう」と自分が追求したいテーマを見つけます。そのときのテーマが前に言った“商品”としての価値をもつかどうか、人と違うもの、人があまり研究していないユニークなものであるかどうか、そこに自立への転換の重要なポイントがあるように思います。サラリーマンを続けるにしても独立するにしても、とくに、これからの時代はオリジナルで生きていくことが大切だと思うのです。

 というわけで、四幕劇の人生もあると気づいたわけですが、さらに最近は、定年後の「余生」の舞台を本番にする生き方もあるのではないかと思っています。つまり、サラリーマン時代に培ったキャリアを生かして、定年後も本番であり続ける五幕劇です。もちろん、定年を待たずに独立する場合もあるでしょうけど、いずれにしても長く社会との接点をもち続ける、生涯現役の考え方があってもいいのではないでしょうか。

 目を移してみると、医者や政治家、芸術家などには60歳を過ぎても活躍している人たちがたくさんいます。しかし、サラリーマンには定年があって、定年後はたちまち「余生」になる。でも、固定的にそう考える必要はなくて、フィナーレにはまだ早いと思うのなら、会社を創る、どこかに所属するなどして、もう一度、自分で自分の舞台を用意すればいいわけです。

 それに際して、私はいろんなところで「あなたのやりたいことは何ですか」と、次のような3つの問いかけをします。

「どういう仕事をしたいですか?」

「どういう生活をしたいですか?」

「どういう人間になりたいですか?」

 これは自分に対する問いでもあって、五幕劇の人生では、根本的なこの3つをはっきりさせることが大事だと思うのです。しかし、できるだけ目に浮かぶように具体的にイメージしたほうがいいらしい。そうすれば実現するということです。

 たとえば私たちがタクシーに乗ると、運転手さんに「どこどこまで」と行き先を告げます。そうすると、ちゃんと目的地まで連れて行ってくれる。でも、どこへ行きたいかがはっきりしないと、なかなか目的地にたどりつけない。それと同じで、人生のタクシーも「どこへ行きますか?」と聞かれた時に「行き先が分からない」では迷ってしまう。そういうこともあるのではないかと思います。

 ことに、今のような情報化社会で行き先がはっきりしないということは、アンテナが立っていないということもできます。自分が何か明確なものをもって、パラボラアンテナを立てていれば、それに関する情報は自ずと引っかかってくる。“何か明確なもの”とはdestination、つまりタクシーでいえば行き先にあたるわけで、このことはdestineとかdestinyと運命にも関係してきます。自分のテーマを持つとは、めざす行き先を明確にすることだと思います。

 ところで、私が定年を意識し始めたのは52、53歳の頃からでした。あと8年だ、あと7年だ…と退職までを逆算していたわけです。それと同じで、人間だから、その先に今度は死というものがあって、もう15年、20年したら「あと何年」と、また引き算を始めるのかもしれません。それを考えた時、私が本当に怖いと思うのは、死ではなくて、自分の潜在能力を使わないで不完全燃焼のまま終わることです。

 50までの自分だったら、そんなふうには考えなかったかもしれません。でも「会社を創る」という五幕劇の舞台づくりにめざめてからは、私は変わりました。自分で自分を閉じ込めることをしないで、やりたいことに自分を発揮したいと思うようになったのです。[完]

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