「長老」として老いる
 
 今の時代、産業・経済の発展が至上命令であり、それに貢献できる「戦士」中心の社会になっている。子どもは戦士予備軍なので、戦士の教育が施され、それからドロップアウトした不登校児は非難される。
 病人は、早く回復して戦士に復帰することだけを目指して病院に通う。
障害者や老人は、戦士としてはもはや役に立たないので、社会の厄介者になり下がっている。
 少子化の影響で老齢者の比率が上がり、「老人間題」が騒がれている。その本質は「厄介者が増えてしまうけど、どうしたらいいのだろうか」という問いであり、老人を厄介者にしてしまった社会そのものを問題にする人は少ない。
 老人が尊重されない社会は暗い。
ああいう悲惨な将来が待っているかと思うと暗澹たる気持ちになる。平均寿命が延びたため、老人たちは厄介者として、引け目を感じながら、長い不遇の年月を送らなければならない。
 伝統派のインディアンの社会では、長老たちは極めて重要な役割を担っている。実際の社会の運営統治はチーフ(族長)やクランマザー(族母)が仕切り、長老は一切タッチしていない。
 しかしながら、病気になった人、悩みを抱えた人、もめごとが発生した人たちなどはまず長老を訪れる。長老は、病人には薬草を与え、食事や生活上のアドバイスはするが、そのほかはほとんど直接的な介入はしない。
 その代わりに、そういう人たちと一緒にパイプセレモニーやスウェットロッジなどの伝統的な儀式を執りおこなう。儀式は祈りだ。当事者も祈るし、長老も祈る。祈ることにより心を開き、大自然と対峙する。長老の祈りの言葉の中に宇宙の理、仏教でいう法(ダルマ)を聞く。
 それにより、個人の問題も、もめごとも解決していく。病気もよく治る。
伝統的なインディアンの社会には、病院も、警察も検察庁も裁判所も刑務所もない。
長老が執りおこなう儀式が、そのすべての役割を代行しているのだ。しかしながら、長老は単に触媒として存在するだけであり、判決を下したり、処罰を決めたりすることはない。
 すべてが、大自然との対峙の中で、自主的に解決していくのだ。それは、すべての住民が大自然に対する深い畏敬の念を抱いているからこそできることだ。
 それに対して文明国では、法律に照らして自らの利益が最大になるようにエゴとエゴが激しくぶつかり、長い裁判を争う。社会としては、いったいどちらが進んでいるのか、よく考えなくてはいけない。
 さて、このような役割を担っているため、インディアン社会における長老の地位はとても高く、尊重されている。子どもから見ても若者から見ても、ああいうふうに年を取りたい、という憧れの的になっている。
 長老たちは例外なく子ども好きであり、子どもたちも長老が大好きでよく遊びにいく。
長老と接していると、知らず知らずのうちに大自然の理や、大自然を畏敬する念を身につけ、人間として生きる道を習得していく。
 つまり、子どもたちの教育の、最も重要な部分を長老が担っているのだ。
 このような社会では、年を取ることは怖くない。むしろ楽しみになる。
 いまの日本のように、老人を厄介者とみなし、その厄介者が増えてしまうのでどうしよう、と右往左往している社会より、インディアン社会の方が、はるかに健全だと感じるのは私だけではないだろう。
 これは決して空想で書いているのではない。私自身がチョクト一族の長老より「聖なるパイプ」を授けられ、インディアン社会では長老に列せられている。
 たとえば、インディアンやそのサポーターが3000人も集まる集会では、長老は毎朝パイプセレモニーを執りおこない、みなの前でスピーチをしなければならない。しかしながら、そういう義務と裏腹に、インディアン社会の中で長老がいかに尊敬されているかを、身をもって体験することができた。
一方、日本の社会でも、いまから40年前を振り返ってみると、老人はかなり尊重されていた。企業における年功序列は極めて厳密であり、年下の人が組織の長になることは珍しかった。普段の生活でも、「年下のくせに」と生意気な発言がとがめられる風潮が強く、長幼の序がきつく保たれていた。
 これはむしろ、江戸時代に定着し、第二次世界大戦終了まで続いた「儒教」による社会支配の影響だ。人々は、人間としての成熟度とはまったく無関係に、一年でも年長の人を敬うことを強制されてきたのだ。これはむしろ、社会の硬直化の要因だった。
 いまの日本で、「老人を大切にしよう」というメッセージを発すると、はるか昔の「儒教」の復活ととられるかもしれない。それは現実的ではないし、また社会の進化に逆行することになる。
インディアン社会が、儒教的社会と違うのは、単に年齢を重ねたから尊敬するのではなく、長老たちが本当に尊敬に値する人間性を身につけていることだ。
逆にいうと、いまの日本社会の老人たちの中で、インディアン社会の長老として務まる人はほとんどいないだろう(私自身が一応長老に列せられているので、このメッセージが嫌味な自慢に響いてしまうことをお詫びする)。
 つまり、若いころから戦士として生きてきて、経済・産業の発展に大いに貢献してきた人が、年老いて戦士として役立たなくなったとき、それ以外に何も身につけていないという、恐るべき現実に直面することになる。
 老人を厄介者としてしか遇しないことを、社会の問題として取り上げたが、それと同じように、単なる戦士として身を削って働くだけで、自らを高めようとしてこなかった老人サイドも、大いに問題なのだ。
 さて、それではどうしたら厄介者にならずに「長老」として老いていけるだろうか。
そのためにはエゴの追求をほどほどにして、自分自身の内面と向き合うことだ。
心の底からこみ上げてくる衝動をしっかりと受けとめ、装うことなく生きる練習をすることだ。
老人間題の本質は、若いときから「いかに生きるか」という、若者の問題でもあるのだ。


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