「事実を共有する」


(この講演録は2011年6月12日、神戸大学、現代経営学研究所のワークショップで講演した内容を元に編集したものです。)


 北村です。実は3年ぐらい前、ある奥様から「北村さんは男のおばさんね」と言われました。おばさんというのはお節介な人という意味で、なかなか私の本質をついているなと思って気に入っています。
 私はいすゞを定年退職して15年たちますし、実際に活動したのは25年前から15年前までです。最近はこのような話をすることも少なくなりましたが、最近、頻繁に発生している「事実隠し」、特に体制にとって不都合な真実を隠すことにも通用する話ではないかと思いましたので、あえて封印してきたことも含めてお話しすることにしました。

 「事実を共有する」というテーマにしていますが、事実というものは、うまくいっていないことも含めて、なかなか組織の中に伝わっていかないのです。私は風土改革を通じていろいろな体験をしましたが、今日は組織の中での情報の伝わり方、事実の伝わり方に絞ってお話ししたいと思います。
 それから改革というのは既存勢力との戦いなのですが、私は改革を少し、遊び心を持ってやることが成功させる秘訣ではないかと思っていますので、そういうことも最初に申し上げておきます。

 最初はいすゞの改革の歴史について述べたいと思います。
いすゞの風土改革で私は飛山社長と関社長という二代の社長にかかわりました。飛山社長のときは、私の役割は破壊していくというか、社長の決めたことを打破していくという立場でしたが、それが関社長になってからは会社を良くしていくという、いわゆる再建の立場に立ちました。その両方にかかわらせていただいた10年でした。
 飛山社長は就任直後にTQCをやろうと言いました。飛山社長とすれば、TQC運動を展開することで会社を良くしたい、仕事や製品の品質を良くしたいと思ったのでしょう。ところが手段が目的化していて、TQCの発表会などが形骸化していきました。
 
 TQCというのは、特性要因図やパレート図などを作ってQCストーリーにして、15分間のプレゼン、45分間の質疑応答をするのです。それを私は「恐怖のお立ち台」と言っていたのですが、次に自分に番が回ってくる部長たちが後方にいて、TQCの先生方やいすゞの経営者がずらっと並ぶのです。そこで15分間プレゼンテーションをして、45分間に矢のように浴びる質問に対して即座に答えないと、「あの部長は能力がない」ということになるので、本来の仕事をほったらかして、土曜、日曜、深夜残業と、その準備をしていました。
 
 私はこの時期、いすゞ自動車は正気を失っていたと思います。
しかしトップが決めたことだから仕方がないと、みんな一生懸命やっていましたが、そのうち精神を病む人も出てきたのです。
 それでもTQCを勉強しているうちはよかったのですが、デミング賞に挑戦することが決まると、それは大変なことになりました。
このときの社内の様子は「TQCマインドコントロール」で紹介されております。
当時、私は北米部長や海外部品部長というラインの部長でしたが、この状況を何とか変えたいと思いました。そこでいろいろな手を打って、デミング賞の受審断念というところまで持っていったのですが、これは私一人でやったことではなく、大勢の人の力を借りたからこそできたのだと思っています。
飛山社長はデミング賞受賞の準備がうまく進んでいると思い込んでいるのですから、私は現場の悲惨な事実をありのまま伝えるということについて一生懸命努力しました。
以前からいすゞ自動車は体質改善をコンサルタントに丸投げする習性がありました。マッキンゼーやTPM、CI活動、時には来島ドック研修など、会社の改革に効きそうな薬はほとんど服用したのですが、あまり効き目がないのです。ですから私は何か違ったやり方はないかとしきりに考えていました。
 
 その頃、日産自動車の久米社長がいろいろな面白い改革をしていました。当時はそれほど知られていなかったコンサルタントの柴田昌治さんがそれを「何が日産自動車を変えたのか」という本に書いて出版しました。私はその本を読んで、とても感動したのです。今までの常識とは大きく違うやり方で、楽しみながら改革をしているところがあったのです。「ああ、これは面白い改革の方法だな」と思い、これを飛山社長に読んでもらいたいと思いました。
 もちろん直訴をすると体制が壊れるので、直訴は許されていないのですが、私は幹部社員でしたし、サラリーマン生活で一度ぐらいは社長に直訴してもいいのではないかと思ったのです。そこで社長に手紙を書いて、その本の要約も作り、親しくしている秘書課長を通じて社長に手紙とその本を届けました。
 
 そして飛山社長が幹部社員の集会で「新しい時代に向けて流れを変えよう」という挨拶をしたときに、「ある部長から本をもらった。日産自動車の変革の話が書いてあるから、これはぜひみんなにも読んでもらいたい」とメッセージの中で取り上げてもらったのです。私の直訴を受けとめてくれたと思い、とてもうれしく思いました。
 しかしこの直訴をした後、なぜか私は海外部品部長からいすゞ能力開発センターという教育会社の社長に転任になったのです。いすゞ能力開発センターというのはいすゞの社員教育をする子会社ですが、同時に「いすゞ新聞」という社内報の編集も担当していました。私は「いすゞ新聞」の編集長になったのです。
 
 当時はゴルバチョフが改革をしており、そのときに「ペレストロイカ」という言葉が流行っていたのです。「ペレストロイカ」というのはロシア語で「改革」という意味ですが、もうひとつ重要な言葉が「グラスノスチ」で、これは「情報開示」という意味です。つまり改革には必ず情報開示が必要だということです。つまり、事実を正しくみんなに伝えると、国民にしても社員にしても、その中で一人ひとりが自分で判断し、行動していくわけです。ですから、「いすゞ新聞」の編集長になったことで、これはチャンスが来たと思いました。

 そこで社員の代表を仙石原の保養所に集めて、社長を中心に、いすゞ新聞の創立記念日特集「いすゞの企業文化を考える」に掲載するホンネ座談会をやりました。そのときに私が約束したのはノーカットで掲載するということです。
一般的に社内報の編集長は、ちょっとまずいものは小骨のように抜き取るのですが、私は全部出すことにしたのです。
 そのときのメンバー構成が非常に大事で、女性が二人加わっています。改革には女性の力が必要です。それから外国人社員が一人入っていました。いわゆるエリートの人たちだけではなく、いろいろな人を集めることで本音が出てくるのです。
座談会が盛り上がるうちに「TQCストーリーは、昔の成功事例を持ってきてつじつま合わせをしながら後づけで資料を準備するという不毛な努力をしている」などと社長に言ってしまったのです。社長は本当に驚いたようです。それまでTQC担当常務はそういうことを社長には一言も言いませんでした。それは仕方がないのです。TQC担当常務やTQC推進室長はデミング賞を獲得することを目標に全力で頑張っていたのですから、悪い情報を集めてきて社長に言うことは絶対にしません。ですから社長はうまくいっていると思い込んでしまっていたのです。そしてその特集号を4月9日の創立記念日に全社員に配りました。社員はそれを読んで、「こういうことを会社の中で言ってもいいのか」と驚いたようです。

 私も調子に乗って、今度は販売会社のセールスマンや工場現場の第一線で働いている人を集めてきて、社長とのホンネ座談会を続けました。すると現場でのすさまじい「やらせ、やらされ」、「つじつま合わせ」の実態が出てきたのです。社長は驚きましたし、それを全部ノーカットで社員に配りましたから、次第に社員の間で「事実を共有する」という意識改革は進んだと思います。
 ところが、これを面白くないと思う人がいました。当時の人事のトップに呼ばれて、「おまえ、やり過ぎじゃないか。これ以上やるんだったら、おれにも考えがあるぞ」と言われたので、「ホンネ座談会」は4回で終わりにしましたが、ここまでやれて良かったと思いました。
間もなく、飛山社長はデミング賞挑戦への撤退を決意、さらに創立以来の大赤字を出して辞任し関社長と交代しました。
 
関社長は企画畑を一筋に歩いてきた人で、社内の知名度がないという問題がありました。GMとの交渉など、社員には見えない仕事をしてきた人で、30歳代後半から将来の社長ではないかと言われた有能な人でしたが、工場の人はほとんど知りませんでした。
私は飛山社長の「デミング賞撤退」にかかわる仕事で私の役割は終わったと思っていました。ところが、関社長から呼ばれて、「今まで通り風土改革を続けてくれ」と言われたのです。そこで私はいすゞ新聞に関社長の親しみやすいソフトなイメージを出して、「関社長デビュー作戦」を展開することにしました。

 一方、「何か始まりそうだな」というような楽しい雰囲気をつくるために、「関さんトークショー」を実施しました。会場でアンケートも配ったのですが、工場の現場の人の8割が「今日まで関さんを見たことも聞いたこともない」というのです。
 

 そこで関社長に、「飛山社長はメッセージを発信するのが好きだったから、関社長もメッセージを書いて下さい」とお願いしました。そして就任挨拶のメッセージで、「私は社長としての風土改革の先頭に立ちます。そのためには私自身がまず変わります」という私が予想しなかったメッセージを書いていただきました。私はこのメッセージを読んでいすゞは変わると思いました。「自分が変わるから、みんなも変わろうではないか」というメッセージは就任早々のメッセージとしてインパクトがあると思ったからです。

 次に対話集会をどんどんやりました。会社には本当にアイデアマンがいて、特に現場の人に頼むといろいろな面白いことを考えてくれます。車座トークというのは体育館の真ん中に台をつくって座布団を敷き、その上に社長に座ってもらって、社長を真ん中にして、みんなが質問して社長が語るようなものです。これによって「関社長って結構親しみがあるな」という感じになりました。
 いすゞでは「社長対話」は歴代の社長で実施されていたのです。社長対話は必ず社長室で実施していました。社長室に入ると社員は緊張してあまり話しませんし、あまり盛り上がらないのです。そこで話を盛り上げるのが上手な社員を探して、リストアップして日頃から「対話要員」を準備していました。人事部の担当はその対話要員リストを持って、何とか盛り上げようと努力をしていました。私はこの対話要員方式も形式化していると感じていました。そこで「社長との対話に参加したい人は手を挙げて下さい」という掲示を工場に張り出して、参加したい人は誰でも自分の意思で参加してもらうことにしました。
 当時、人事部は参加者をすごく気にしていました。当時は思想的な問題もあって、社長に会ってもらいたくない人もいるのです。しかし、そういうことを乗り切らなければどうしようもないので、私は腹を括る気持で実施しました。

 関社長にも、「工場へ行って下さい。現場へ行って下さい」「背広やネクタイではなくて作業服に着替えて下さい」「みんなと同じ目線でやって下さい」ということをお願いしました。
組織には階層がありますから、社長の会社を良くしたいという思いがなかなか現場まで伝わらないのです。ですから中間管理職の「社長対話」は後回しにして、まず社長と現場とを直結させることから始めました。つまり大脳と手足をつなげて血の流れを良くするようなことをしたわけです。これはかなりインパクトがありました。

 次に考えたのが「100人委員会」です。これは「週刊文春」でOLが自分の会社の悪口を言うというか、上役の悪口を言うという「OL100人委員会」というものがあったのです。なかなかいいネーミングだったので「100人委員会」というのを作って、これは部長からやろうというので130人の部長から募集したら、17人が応募してきました。自分の意思で参加することが大事だから、その17人の部長で何回かミーティングをしました。そうしたら、会社への不満や問題意識は高いのですが、具体的に問題を解決しようという話にはなかなかならないのです。つまり評論家としては優れているのですが、当事者にはなりきれないというような状況でした。
あるとき若い4人の社員が私のところに来て、「北村さん、部長の人たちは21世紀にはいすゞにはいないでしょう。21世紀にいない人たちが問題点を挙げてもムダだから、21世紀に在籍する私たちにやらして下さい」と私に言ったのです。「なかなか面白いな。誰か若いのを連れてくるか」と言ったら、連れてくると言うのです。それから社内のあちこちに若手社員が中心になった「100人委員会」が生まれました。私はこれに全部参加しました。それも仕事が終わってからやるので夜の時間です。
 柴田昌治さんのオフサイトミーティングというのは、この「100人委員会」からできたのではないかと思っています。いすゞでは「オフサイトミーティング」とは言わずに「100人委員会」と言っていました。
 

 正直言って、私もなかなか危なかったのです。社長の知らないところで人事担当役員が「北村をどこかの子会社の社長に栄転させる」ことを決済すれば、それで終わりです。ですから、私はこの改革が進行していることを社外に知らせる必要があったのです。そこで日本経済新聞の親しくしている記者に頼んで、1年がかりで「瀬戸際いすゞの風土改革」という記事を書いてもらいました。ところが、私が期待するような記事にはならなかったのです。むしろかなり辛辣な記事になったので、恥さらしをした部長がいると常務会で大問題になったそうです。そのとき助けてくれたのがGMから赴任していた役員で、「面白いじゃないか。こういうことをやることも産みの苦しみだ」と言って擁護してくれたのです。それで私の首がつながりました。
  それで関社長は「関イズム」でいい方向に会社を改革し、長い間、大赤字を出していた乗用車からも撤退しました。
 
 私は15年前に定年退職した後、どうしたら人がやる気になるのか、それから情報とは一体何なのかを研究したいということで「人と情報の研究所」を設立して、5年前からは「五感塾」を始めました。今、企業人はあまりにも論理的思考や知識に偏ってしまって、左脳肥大、右脳縮小のようにバランスを欠いているのではないかと思ったからです。活性化した組織をつくるためにはパラサイト社員(組織に依存した社員)よりは自立した社員を多数、育てたいのです。自立した社員というのは私の定義では、「自分の頭で考えて、自分の心で判断する」社員のことです。大事なことは心で判断することで、どんなに論理的に筋が通っていても、心が受けつけないものは危ないのです。いわば組織の免疫力ということです。私たちはあまりにも左脳の教育が進んだために、感じる力、気づく力がすごく衰えています。そういう意味で「五感塾」というのを始めて、日本各地、海外でもやりました。
 
 3年前、70歳になったのを機に金井壽宏さんのところへ行って、これからの若い人たちと社会人の交流の場ということで「金井老壮青ゼミ」を提案しました。以来、3年間、継続して実施しています。また地域で実施する「五感塾」では「老壮青幼」ということで子どもにも参加してもらっています。私たちは子どもから学ぶことがあるのです。世の中は老、壮、青、幼とつながっていますから、そういう学びの場があってもいいのではないかと考えているのです。
 
 私は風土改革に携わった人には大体三つの特徴が出てくるように思うのです。ひとつは「管理より経営」です。今の会社には管理する人が多過ぎます。管理するというのは、上から指示されたことをマネジメントしていくということですが、社内が管理する人、管理される人という構造ではなく、経営する人が多いほうがいいのです。経営する人というのは、決して経営者だけではありません。現場経営や部門経営もあります。周りの環境、他部門が何をしているかということも勘案しながら、自分が何をするべきかを考えるのが経営だと思うのです。さらには風土改革をすることで組織の経営だけではなく、自分自身の経営、つまりリソース(人脈、知識、経験など)を生かしきって人生を全うするという自分の経営ができるようになります。風土改革というのは人に言われてやることではないので、自分で考えてやるしかないからそうなるのだと思います。
 
 ふたつ目は「問題解決より問題発見」です。何が問題なのかがわかれば、解決しようという人が出てくるものです。ところが「何が問題なのか」がなかなかわからないのです。そのためにも事実を共有しながら問題を見つける能力を高めていきたい。風土改革をすると問題感受性が高まってくるようです。それは氷山に例えるとわかりやすいでしょう。氷山は水面上より水面下のほうが大きいですね。問題の大部分は水面下の見えないところに存在します。問題発見というのは「見えない問題を見える化」するということです。
 
 三つ目は「仕事力より人間力」です。知識、技術、技能、問題意識、判断力、決断力、人間関係力といったものは当然仕事力として、あるいはマネジメント力として勉強して体得していくのです。一方、人間力というのは、その人の人柄や魅力、包容力といったものだと思います。よく言われるのですが、話す力はスキルですが、聞く力は人間力を反映しているのです。ですから人間力があるかどうかを見るときは、その人の話を聞く態度を見れば大体判定がつきます。思想、哲学、魅力、人柄、懐の深さ、人を包容していく力、そういったところに本当のリーダーシップがあるのだと思います。
 今日はせわしく、慌しくお話ししましたが、ご清聴いただき有難うございました。(完)

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